作家・宇野千代の生き方をたどると、たびたび登場するのが父・宇野俊次です。
宇野千代は幼い頃から、父に厳しく育てられました。
一方、俊次自身は定職を持たず、馬や博打などを好んでいたと宇野千代は振り返っています。
この記事では、
- 宇野千代の父・俊次はどんな人物だったのか
- 宇野千代と父・俊次の親子関係
- 父の死が宇野千代に与えた変化
についてご紹介します。
宇野千代の父・俊次とは?
宇野千代の父は、宇野俊次です。
宇野千代が1897年11月28日に山口県玖珂郡横山村、現在の岩国市川西で生まれたとき、俊次は42歳でした。
宇野千代本人の回想をたどると、俊次はかなり個性的な人物だったことがわかります。
宇野俊次の生まれと家柄
俊次の実家は、高森にあった宇野家です。
現在の岩国市周東町にあたり、宇野家は代々造り酒屋を営む財産家でした。
岩国市の「宇野千代―岩国の旅―」でも、俊次の実家について「代々の造り酒屋で財産家」と紹介されています。
つまり、俊次自身が酒造業を経営していたというより、酒造業を営む裕福な家に生まれた人物だったのかもしれません。
宇野千代が生まれたとき、俊次の妻はトモでした。
しかしトモは、宇野千代を産んで約1年半後に肺結核で亡くなります。
その後、俊次は17歳の佐伯リュウと再婚しました。
俊次とリュウの間には、4人の弟と1人の妹が生まれています。
宇野千代にとっては異母きょうだいにあたります。
宇野千代は幼い頃に実母を亡くしたため、一時期、高森にある俊次の実家に預けられていました。
父方の宇野家は、宇野千代の幼少期にも深く関わっていたのですね。
道楽を好んだ父・俊次
裕福な酒造家の家に生まれた俊次ですが、宇野千代の回想では、堅実に家業へ励むような人物としては描かれていません。
むしろ、かなり奔放な父だったようです。
宇野千代は父について、
「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
と振り返っています。
宇野千代本人の回想からも、俊次が馬や競馬、博打などを好んでいたことがわかります。
ただ、ここで「だらしない父だった」と一言で片づけるのは少し違うのかもしれません。
家の外では遊び好きな人物として知られていた一方、家庭内では子どもたちから非常に恐れられる存在だったからです。
ところが宇野千代が家で見ていた父は、気難しく、ほとんど笑わない人物でした。
家の中と外では、かなり違う顔を見せていたようです。
宇野千代と父・俊次の関係
自由気ままに生きていたように見える俊次ですが、子どもたちへの接し方はまったく違いました。
宇野千代にとって父は、簡単には逆らえない存在だったようです。
父・俊次は厳格
俊次は、子どもたちには非常に厳しい父でした。
山口県公式サイトでは、「スパルタ式の教育」と表現されています。
幼い宇野千代にとって、父に絶対服従することは当たり前だったといいます。
また、宇野千代は文学に興味を持ち始めてからも、父から雑誌や新聞を読むことを禁じられていました。
そのため、読みたいものがあると厠へ行くふりをして、こっそり読んでいたそうです。
現在の感覚からすると、かなり厳しい家庭ですよね。
一方で興味深いのは、俊次自身は博打や遊興を好み、自分のしたいことをかなり自由にしていたことです。
自分自身は奔放に暮らしながら、子どもには厳しい規律を求める父でした。
宇野千代にとって俊次は、単純には理解しにくい父だったのかもしれません。
ただし、宇野千代が父をどういう感情で見ていたのかについては、わかりません。
父の死をめぐる宇野千代の回想を見ると、その感情はもっと複雑だったことがわかります。
宇野千代は14歳で結婚
父・俊次の厳しさを象徴する出来事のひとつが、宇野千代14歳のときの嫁入りです。
山口県公式サイトによると、宇野千代は父に命じられ、従兄の藤村亮一のもとへ嫁ぎました。
しかし、まだ14歳だった宇野千代の結婚生活は長く続きませんでした。
わずか10日ほどで実家へ戻ったとされています。
父・俊次の死と宇野千代
俊次は1913年、宇野千代が16歳のときに亡くなりました。
厳しい父の死は、宇野千代の生活が変わるひとつの節目になります。
父の死への複雑な思い
父が亡くなったとき、宇野千代は激しく泣いたといいます。
ところが同時に、次のようにも振り返っています。
「なんとなく嬉しかった」
(引用『生きて行く私』宇野千代)
少し驚く言葉ですよね。
宇野千代は父の死を悲しみ、激しく涙を流していました。
その一方で、それまで父に厳しく抑えられてきた生活から解放されたような感覚もあったことを本人が振り返っています。
悲しさと解放されたような感覚が同時にあったことが、この言葉から伝わってきます。
ただ、「父を愛していた」「父を嫌っていた」といった感情まで、こちらから決めつけることはできません。
宇野千代本人の回想からは、父の死に対して単純ではない思いを抱いていたことがうかがえます。
父の死後に文学へ
俊次の死後、宇野千代の生活には変化がありました。
それまで父から雑誌や新聞を読むことを禁じられていた宇野千代は、小説などを自由に読めるようになります。
宇野千代は次第に文学へ夢中になりました。
そして読むだけではなく、自ら詩や散文を書き、『女子文壇』などの雑誌へ投稿するようになります。
のちに小説家となる宇野千代にとって、この時期は大きな転機だったといえるでしょう。
ただし、「父が亡くなったから小説家になった」とまで単純に結びつけることはできません。
宇野千代は女学校時代から作文で文才を見せており、文学への興味そのものは以前からあったとされています。
父の死によって、それまで制限されていた読書や創作に、より自由に向き合える環境になりました。
父の死が文学の才能を生んだのではなく、文学への関心を広げるひとつの転機になったのかもしれませんね。
宇野千代は父・俊次に似ていた?
厳しく、自分を抑える存在でもあった父・俊次。
ところが宇野千代は後年、父について振り返る中で、自分自身との共通点にも目を向けています。
宇野千代が感じた父との共通点
宇野千代は『生きて行く私』の中で、父について、自分のしたいことを次々にする人物だったと振り返っています。
そして父について書くうちに、次のように記しています。
「この父のことは凡て、この私のことではなかったか」
(引用『生きて行く私』宇野千代)
若い頃の宇野千代にとって、俊次は恐ろしく厳しい父だったはずです。
ところが自分自身の人生を振り返る中で、父の中に自分と似た部分を見つけたのでしょう。
宇野千代自身も、小説だけでなく、雑誌編集や着物のデザインなど、さまざまな分野に挑戦しました。
宇野千代本人が父と自分の共通点を意識していたことです。
若い頃には自分を厳しく抑える存在だった父。
長い人生を経たあと、その父の姿の中に自分自身を見るようになりました。
宇野千代にとって俊次は、自分の生き方を振り返るうえでも大きな存在だったことがうかがえます。
参考:
岩国市「宇野千代―岩国の旅―」
山口県観光サイト「作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観」
まとめ|宇野千代と父・俊次の関係
以上、宇野千代の父・俊次についてご紹介しました。
- 父・俊次は高森の造り酒屋の家に生まれた
- 俊次は道楽を好む一方、家庭では厳しい父だった
- 宇野千代は14歳で父に命じられて嫁いだ
- 俊次の死後、宇野千代は文学への関心をさらに深めた
- 後年、宇野千代は父と自分の共通点にも気づいていた
宇野千代の回想によると、俊次は馬や博打など多くの道楽を好む一面がありました。
その一方、家庭では非常に厳しい父でした。
1913年に俊次が亡くなると、宇野千代は深く泣きながらも、どこか解放されたような感覚もあったと振り返っています。
父の死後は、それまで制限されていた読書にも自由に向き合えるようになり、文学への関心をさらに深めていきました。
さらに興味深いのは、後年の宇野千代が、自分と父・俊次の間に共通する部分を見つけていたことです。
父・俊次との関係を知ると、宇野千代という人物の生き方も、少し違った角度から見えてくるのではないでしょうか。
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