宇野千代といえば、4度の結婚と数々の恋愛で知られる作家です。
しかしその波乱の人生の背景には、個性的な家族の存在がありました。
この記事では、宇野千代の家系図をもとに、父親・兄弟・歴代の夫・子供と子孫について、わかりやすく解説します。
宇野千代の家系図と家族構成
宇野千代は、明治30年(1897年)11月28日に生まれました。
出生地は山口県玖珂郡横山村、現在の岩国市川西町です。
宇野家は代々酒造業を営む旧家でした。地元では「近在に聞こえた分限者(大金持ち)」として広く知られていました。
そのルーツは戦国時代にまで遡ります。
宇野千代の家系図

先祖は玖珂・鞍掛山の城主・杉高泰の家老、宇野筑後守正常という人物。
毛利氏に城を攻められ落城した際、正常は切腹。
その三男が帰農し、以来代々酒造業を家業としてきました。
また、大内氏の庶流である宇野氏の名跡を継ぐ家系ともされています。
千代はこの由緒ある家に長女として生まれました。
しかしその幼少期は、決して穏やかなものではありませんでした。
宇野千代の父親・宇野俊次
千代の父・宇野俊次は安政2年(1855年)生まれ。
宇野茂吉の次男として生まれ、宇野熊太郎の養子となりました。
千代自身が後年こう振り返っています。
「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人乃至狂人だった」
俊次は馬を何頭も飼育して競馬に出場させ、博打にも明け暮れる放蕩な人物でした。
家庭内では一転して峻厳そのもの。
家での会話は「父の命令と子供の答えだけ」という徹底ぶりでした。
「草履は腐るが足は腐らん」という言葉を口癖にし、雪の日でも子供たちを裸足で学校へ行かせました。
その一方で、成績優秀な千代が旧藩主から褒美をもらうと、それを自慢げに持ち歩き、料理屋や芸者屋に連れて回るという意外な一面もありました。
この厳格な父は、千代が16歳のとき(大正2年・1913年)に57歳で病没します。
父の死後、家族は重圧から解放され、千代は継母とともに浪花節を聴きに行くなど、自由な芸術に触れる機会を得ることになりました。
宇野千代の母親
千代の実母は土井トモという女性です。
千代の両親は苗字が違いますが、これは私生児だったわけではありません。
千代が早く生まれたため、父が入籍の手続きを怠っていたことが原因でした。
母・トモは千代が生まれてわずか1年半後、明治32年(1899年)に肺結核のため26歳で亡くなりました。
千代は実母の記憶をほとんど持たず、後年になって伯母からその存在を知らされています。
翌年の明治33年(1900年)、父・俊次は佐伯リュウと再婚します。
このとき俊次は45歳。リュウはわずか17歳でした。千代との年齢差は12歳。まるで姉妹のような若さでした。
リュウは血の繋がった子と千代を分け隔てなく育てました。
一番美味しいものを千代に食べさせ、お風呂も一番風呂に入れるなど、目に見える形で愛情を示しました。
千代もこの若き継母に深く懐き、二人の絆は生涯続きます。
宇野千代の兄弟姉妹
父・俊次とリュウの間には5人の子供が生まれています。
千代を含めた宇野家の兄弟姉妹は以下の通りです。
- 宇野千代(1897年〜1996年):長女
- 宇野薫(1901年〜):長男、5歳年下の弟
- 宇野鴻(1904年〜1945年):次男、7歳年下の弟
- 宇野勝子(1906年〜):次女、9歳年下の妹
- 宇野光雄(1908年〜1941年):三男、11歳年下の弟
- 宇野文雄(1911年〜):四男、14歳年下の弟
千代は弟妹の面倒をよく見る「小さなお母さん」として振る舞っていました。
継母の愛情に包まれた宇野家の兄弟愛は、周囲が羨むほど強いものだったとされています。
宇野千代の結婚遍歴|4人の夫と華麗なる恋愛史
宇野千代の家系図を語るうえで避けて通れないのが、その壮絶な恋愛・結婚遍歴です。
千代は生涯に4度結婚し、さらに1人の長期パートナーと同棲しました。
彼女は自他ともに認める「面食い」であり、時代の価値観にとらわれない、自由奔放な生き方を貫きました。
1度目の結婚:藤村亮一(1911年)
千代がわずか14歳のとき、父・俊次の命令で結婚させられました。
相手は母の姉の息子、つまり従兄弟にあたる藤村亮一でした。
しかし余命いくばくもない父に会いに実家へ戻ると、そのまま婚家に帰ることはありませんでした。
結婚生活はわずか10日間で終わりを告げます。
その後、教師となった千代は同僚の佐伯正夫に恋をします。
当時、教師同士の恋愛はご法度。
千代は職を追われ、朝鮮のソウル(当時の京城)へ渡ります。
後に佐伯が別の女性と結婚したという知らせを受け、千代は包丁を持参して彼のもとへ乗り込みますが、突き飛ばされて追い返されました。
これが千代の最初の壮絶な失恋です。
2度目の結婚:藤村忠(1919年〜1924年)
失恋後の1916年、19歳の千代は京都へ向かいます。
頼ったのは、最初の夫・亮一の弟である藤村忠でした。
実は最初の結婚のときから、千代の心は弟の忠に向いていました。
二人は京都で同棲を始め、忠が東京帝国大学に進学すると共に上京。
1919年に正式に結婚しました。その後、忠の就職に伴い北海道へ移住。
千代は北海道で仕立ての技術を学んで大金を得ると、懸賞小説に応募して見事1位を獲得。
ここから作家としての道が開かれます。
3度目の結婚:尾崎士郎(1924年〜1930年頃)
懸賞小説の受賞を機に上京した千代は、中央公論社で小説家の尾崎士郎を紹介されます。
北海道に夫の忠を残したまま、千代は尾崎に惚れ込み東京で同棲を開始。
1924年に忠と離婚し、尾崎と3度目の結婚をしました。
二人は馬込文士村に家を構え、萩原朔太郎、室生犀星、梶井基次郎ら多くの文人たちと親交を深めます。
しかし、千代が梶井基次郎と毎晩話し込む姿が近所で噂になりました。
怒った尾崎が当てつけとして若い娘と祝言をあげてしまい、二人の関係は破綻します。
その後、千代は洋画家・東郷青児と同棲を始めます。
東郷は直前に別の女性と心中未遂事件を起こしたばかりでした。
千代が東郷の絵を売りに大阪へ行った際、会社社長と関係を持ったことが露見。
さらに東郷が心中未遂の相手とよりを戻して結婚したため、二人も別れることになります。
4度目の結婚:北原武夫(1939年〜1964年)
千代は10歳年下の小説家・北原武夫に一目惚れします。
周囲の猛反対を押し切り、吉屋信子と藤田嗣治を媒酌人として、1939年に帝国ホテルで盛大な結婚式を挙げました。
二人は日本初のファッション専門誌「スタイル」を復刊させ、銀座に自社ビルを構えるほどの大成功を収めます。
しかし、のちにスタイル社の脱税問題が発覚。
多額の借金を背負うことになりました。
借金を完済した後、1964年に離婚。これが千代にとって最後の結婚となりました。
宇野千代に子供・子孫はいる?現在は?
宇野千代の結婚・恋愛遍歴を辿ると、多くの人が「子供や子孫はどうなったのか」と気になるはずです。
結論から言えば、千代には生涯を通じて血の繋がった実の子供はいませんでした。
一部の伝記(工藤美代子著『愛して生きて―宇野千代伝』)には、千代が尾崎士郎と正式入籍前に妊娠し、堕胎したというエピソードが描かれています。
しかし千代自身の自伝的随筆『生きて行く私』や全集の年譜には、この妊娠・堕胎に関する記載が一切ありません。
史実かどうかについては議論があり、現時点では確証がない状況です。
血の繋がった実子はいなかったものの、千代は縁の深い子供たちを我が子同然に愛しました。
年譜や関連記事には以下のような名前が登場しています。
- 藤江淳子(千代の「娘」として記される人物)
- 東郷たまみ・東郷志馬(東郷青児の子供たち)
- 北原ミキ(北原武夫の血縁と思われる人物)
千代が愛し育てた「子供たち」は、彼女の波乱に満ちた人生において、確かな家族の存在でした。
血縁という形ではなくても、千代の周囲には常に人が集まり、愛が循環していました。それが宇野千代という女性の本質でもありました。
宇野千代の家系図まとめ
宇野千代の家系図と家族の歴史を振り返ると、そこには非常に複雑で、しかし豊かな人間模様があります。
格式ある造り酒屋の家に生まれ、厳格な父と若き愛情深い継母のもとで育ちました。
異母弟妹5人と強い絆で結ばれ、4度の結婚と数々の恋愛を経験し、実子はいないながらも多くの「子供たち」に愛情を注ぎました。
千代の人生を一言で表すなら「自分の意思で生き抜いた人生」です。
- 時代の価値観に縛られず、自分が好きな人と生きた
- 借金も、別れも、すべて自分の足で乗り越えた
- 晩年まで着物デザイナーとして現役を続けた
- 生涯で13軒もの家を自ら建てた
千代は98歳で大往生を遂げ、1996年にその生涯を閉じました。
実の子孫こそいませんでしたが、『おはん』『色ざんげ』『生きて行く私』といった不朽の文学作品と、彼女が生み出した着物デザインは今も息づいています。
宇野千代の家系図が語るのは、単なる血のつながりではありません。
自由に愛し、自由に生きた一人の女性が残した、圧倒的な「生のあとさき」です。