宇野千代といえば、4度の結婚と華やかな恋愛遍歴で知られる作家です。
そんな千代の人生をたどると、厳格な父親や愛情深い継母、5人の弟妹など、個性的な家族の姿が見えてきます。
しかも、実家は代々続く造り酒屋。先祖は戦国武将に仕えていたとも伝えられています。
この記事では、宇野千代の家系図をもとに、両親・兄弟・4人の夫、子供や養子、現在の子孫についてわかりやすく紹介します。
宇野千代の家系図と家族構成【図解】
宇野千代が生まれたのは、1897年(明治30年)11月28日。
場所は山口県玖珂郡横山村、現在の岩国市川西町です。
宇野家は代々酒造業を営む旧家で、かつては地元でも指折りの裕福な家だったそうです。
まずは家系図を見ながら、宇野家の家族関係を整理してみましょう。
宇野千代の家系図

宇野千代には、生みの母・土井トモと、幼い頃から育ててくれた継母・佐伯リュウがいました。
父・俊次とリュウの間には5人の子供が生まれ、千代は4人の弟と1人の妹を持つ、6人きょうだいの長女として育ちます。
千代だけ母親が違いますが、継母のリュウは実の娘のようにかわいがってくれたそうです。
また、父・俊次自身も養子として宇野家の分家に迎えられていました。
そのため、千代には実の祖父・宇野茂吉と、養祖父・宇野熊太郎がいます。
家系図が少し複雑なのは、こうした養子関係があるためなのですね。
実家は造り酒屋!宇野家の先祖は戦国武将の家臣
宇野家のルーツをたどると、なんと戦国時代にまでさかのぼります。
先祖と伝えられているのは、宇野筑後守正常(うのちくごのかみまさつね)という人物です。
正常は、玖珂の鞍掛山に城を構えていた杉隆泰に仕えた家老だったといいます。
ところが1555年、毛利軍との戦いで鞍掛城は落城。正常も主君とともに命を落としたと伝えられています。
その後、正常の三男が農民となり、子孫が酒造業を営むようになったというのが宇野家に伝わる話です。
かつて大きな財産を持っていた宇野家ですが、父・俊次の放蕩は家族の暮らしにも影響を与えました。
その俊次が、なかなか個性的な人物だったのです。
宇野千代の両親と5人の兄弟姉妹
由緒ある家に生まれた千代ですが、幼少期は決して穏やかなものではありませんでした。
気性の激しい父親に、若くして亡くなった実母。
一方で、千代を温かく包んでくれたのが継母のリュウでした。
父親・宇野俊次は厳格で放蕩な人物
千代の父・宇野俊次は、1855年(安政2年)生まれ。
宇野茂吉の次男として生まれ、のちに分家の宇野熊太郎の養子となりました。
俊次は、とにかく気性の激しい人物だったようです。
馬を何頭も飼い、競馬や博打に夢中になる一方、家では家族に絶対服従を求めていました。
家族の会話は「父の命令と子供の返事だけ」。
それほど厳しい父親だったといいます。
「草履は腐るが足は腐らん」が口癖で、雪の日でも子供たちを裸足で学校へ行かせたというから驚きます。
ところが、娘の千代が学校でよい成績を収めると、今度は大喜び。
褒美をもらったことを自慢し、千代を料理屋などに連れて回ることもありました。
厳しいだけではなく、娘の才能を誇らしく思う気持ちもあったのかもしれません。
そんな俊次は、1913年(大正2年)に亡くなりました。
父の死をきっかけに、千代の暮らしは大きく変わっていきます。
それまでの厳しいしつけから解放され、継母と浪花節を聴きに出かけるなど、自由な時間を楽しめるようになったのです。
実母・土井トモは千代が幼い頃に死去
宇野千代の実母は、土井トモという女性です。
ところが、千代が生まれて間もない1899年(明治32年)、肺結核で亡くなってしまいます。
まだ26歳という若さでした。
当時、千代はわずか1歳ほど。
母親の顔も声も、ほとんど覚えていなかったそうです。
のちに親族から実母の話を聞き、自分の生い立ちを知ることになります。
なお、父親と母親の名字が違うのは、父・俊次が婚姻の届け出をしていなかったためとされています。
⇒宇野千代の実母・トモはどんな人?宇野千代と実母トモの関係を解説
継母・佐伯リュウは千代を実の娘のように愛した
実母の死後、父・俊次が再婚したのが佐伯リュウです。
驚くことに、当時のリュウはまだ17歳。
千代とは12歳ほどしか離れていませんでした。
母親というより、お姉さんのような年齢ですよね。
それでもリュウは、千代を心からかわいがりました。
おいしい食べ物は千代に食べさせ、お風呂も一番に入らせてくれたといいます。
その後、リュウ自身にも5人の子供が生まれましたが、千代への愛情が変わることはありませんでした。
血はつながっていなくても、千代にとってリュウはかけがえのない母親だったのです。
二人の深い絆は、千代が大人になってからも続きました。
兄弟姉妹は弟4人と妹1人
宇野千代には、5人の弟妹がいました。
全員が父・俊次と継母・リュウの間に生まれた子供です。
| 名前 | 続柄 | 母親 |
|---|---|---|
| 宇野千代 | 長女 | トモ |
| 宇野薫 | 長男 | リュウ |
| 宇野鴻 | 次男 | リュウ |
| 宇野勝子 | 次女 | リュウ |
| 宇野光雄 | 三男 | リュウ |
| 宇野文雄 | 四男 | リュウ |
千代は弟妹たちの面倒をよく見ており、家族の中では「小さなお母さん」のような存在でした。
継母のリュウとも仲がよく、年の離れた弟妹たちを一緒に育てるような毎日だったのでしょう。
兄弟姉妹のつながりは、千代が大人になってからも続きました。
特に妹・勝子の養子である純夫は、千代がかわいがった家族のひとりとして知られています。
⇒ 宇野千代の家族構成は?父・実母・継母・兄弟をわかりやすく解説
宇野千代の結婚歴|4人の夫と東郷青児
宇野千代の人生を語るうえで、やはり外せないのが結婚と恋愛です。
14歳で初めて嫁入りしてから、作家や芸術家との出会いと別れを繰り返しました。
まずは4人の夫と、同棲した東郷青児との関係を図で見てみましょう。

結婚相手には、親族や小説家など、さまざまな人物がいます。
しかも、最初に嫁いだ藤村亮一と、その後に結婚した藤村忠は兄弟だったとする資料もあります。
まるで小説のような人生ですよね。
| 相手 | 関係 | 主な時期 |
|---|---|---|
| 藤村亮一 | 14歳で嫁いだ相手 | 1911年頃 |
| 藤村忠 | 結婚相手 | 1919~1924年 |
| 尾崎士郎 | 結婚相手 | 1924~1930年頃 |
| 東郷青児 | 同棲相手 | 1930年代前半 |
| 北原武夫 | 結婚相手 | 1939~1964年 |
※藤村亮一との短い結婚を数えず、藤村忠を最初の夫とする資料もあります。また、婚姻や同棲の期間には資料による違いがあります。
1度目の結婚・藤村亮一|わずか10日で実家へ
千代が初めて結婚したのは、まだ14歳の頃でした。
相手は、親族にあたる藤村亮一です。
この結婚は、父・俊次の意向によるものでした。
ところが、千代はどうしても結婚生活になじめません。
父の病気を理由に実家へ戻ると、そのまま夫のもとには帰りませんでした。
一緒に暮らしたのは、わずか10日ほど。
14歳の千代にとって、最初の結婚はあまりにも短いものとなりました。
※なお、この結婚相手の名前については資料によって表記が異なります。宇野千代顕彰会の年譜では「藤村雄一」、ほかの文献では「藤村亮一」と記されています。
2度目の結婚・藤村忠|最初の夫の弟とされる人物
その後、千代が心を寄せたのは藤村忠でした。忠は最初の夫・藤村亮一の弟とされています。
忠は東京帝国大学で学んだのち、北海道拓殖銀行に就職した人物でした。
千代は京都で忠を頼り、やがて一緒に暮らし始めます。
1919年8月には正式に結婚し、その後、忠の仕事に伴って北海道の札幌へ移り住みました。
そして、この北海道での生活が千代の人生を大きく変えることになります。
千代が応募した小説「脂粉の顔」が、1921年に懸賞小説で一等に選ばれたのです。
ここから宇野千代の作家人生が本格的にスタートしました。
しかし、夫婦の関係は長く続きません。
二人は1924年4月に離婚し、それぞれ別の道を歩むことになりました。
3度目の結婚・尾崎士郎|馬込文士村で暮らす
次に千代の人生に登場したのが、小説家の尾崎士郎です。
二人が出会ったのは1922年頃。
千代は当時まだ藤村忠と結婚していましたが、尾崎との関係が深まり、一緒に暮らすようになりました。
そして1924年4月、藤村忠と離婚。同年、尾崎士郎と正式に結婚します。
二人が住まいを構えたのは、多くの作家や芸術家が集まっていた馬込文士村です。
萩原朔太郎や室生犀星、梶井基次郎など、そうそうたる文化人たちと交流する日々。
千代にとっては、文学の刺激に満ちた毎日だったことでしょう。
ところが、夫婦の間には次第にすれ違いが生まれます。
恋愛をめぐる問題なども重なり、1930年頃には二人の関係も終わりを迎えました。
同棲相手・東郷青児|画家との波乱の恋
尾崎士郎との関係が終わったあと、千代が一緒に暮らしたのは洋画家の東郷青児でした。
東郷といえば、女性を描いた優美な絵画で知られる画家です。
二人は同棲し、芸術家らしい華やかな生活を送りました。
しかし、東郷自身にも複雑な恋愛関係がありました。
二人の間にも行き違いが生まれ、やがて別れることになります。
なお、東郷青児は宇野千代と同棲しましたが、結婚した夫には含まれません。
4度目の結婚・北原武夫|最後の夫とは25年間
最後の夫となったのが、10歳年下の小説家・北原武夫です。
1939年、二人は帝国ホテルで華やかな結婚式を挙げました。
千代はすでに1936年にファッション雑誌「スタイル」を創刊しており、出版の仕事にも力を注いでいました。
結婚後は北原とともに出版事業に取り組み、銀座に自社ビルを構えるほどの成功を収めます。
ところが、会社の経営問題などから、多額の借金を抱えることになってしまいました。
華やかな成功から一転、厳しい現実に直面したのです。
それでも千代は仕事を続け、苦境を乗り越えようと奮闘しました。
その後、1964年に二人は離婚。
北原武夫との25年間の結婚生活が、千代にとって最後の結婚となりました。
宇野千代に子供・養子はいた?
4度の結婚を経験した宇野千代。
これだけ波乱に満ちた人生を送っていると、子供はいたのだろうかと気になりますよね。
結論からいうと、宇野千代には、成長して家系を継いだ実の子供は確認されていません。
ただし、妹の養子や、娘のようにかわいがった人物など、家族同然の存在はいました。
宇野千代に実の子供はいなかった?
宇野千代には、藤村忠との結婚生活で、5回の妊娠を経験したという話があります。
そのうち4回は流産し、1回は出産したものの、赤ちゃんは生まれた当日に亡くなったといいます。
後年、千代は瀬戸内寂聴に、骨盤が狭く子供が育たない体だったと語ったそうです。
ただ、こうした経験について、自伝『生きて行く私』では詳しく触れていません。
千代がこの出来事をどのように受け止めていたのか、その胸の内はわかっていません。
1935年に発表した短編小説「私と子供」には、主人公が寵子(ちょうこ)という女の子を産み、幼くして亡くす物語が描かれています。
宇野千代は弟の子供を養子に迎えた?
宇野千代の家系を調べると、養子についての話も出てきます。
ただし、千代本人が弟の子供や甥を法律上の養子に迎えたという確かな記録は、確認できていません。
一方、養子を迎えたことが知られているのは、千代の妹・勝子です。
勝子は佐野家から幼い男の子を養子として迎えました。
その子が純夫(すみお)です。つまり、純夫は宇野千代の養子ではなく、妹・勝子の養子だったのです。
千代にとっては、義理の甥にあたる関係ですね。
純夫は千代にとってもかわいい存在だったようで、『生きて行く私』にも交流が描かれています。
藤江淳子は娘のように親しかった秘書
もうひとり、千代の人生を語るうえで欠かせない人物がいます。
それが、長年にわたって秘書を務めた藤江淳子です。
藤江は1960年から千代の仕事や暮らしを支え、公私にわたる大切なパートナーとなりました。
一緒に過ごした時間は、なんと36年間。
千代は藤江を娘のようにかわいがり、深い信頼を寄せていたといいます。
千代の死後も、藤江はその作品やブランドを守る仕事に携わりました。
ただし、藤江淳子は宇野千代の実の娘でも、養女と確認されている人物でもありません。
血のつながりはなくても、二人は家族のように強い絆で結ばれていたのでしょう。
宇野千代の子孫は現在どうなっている?
宇野千代本人から続く直系の子孫は、現在確認されていません。
では、宇野家の血筋は途絶えてしまったのでしょうか。
弟妹の家系には甥や姪がいる
千代自身に家系を継いだ実子は確認されていませんが、弟妹にもそれぞれの家族がいました。
たとえば、妹・勝子には養子の純夫がいました。
誰がどこで暮らしているのか、どの家系が続いているのかといった詳しい状況はわかっていません。
妹・勝子の養子・純夫は千代の義理の甥
妹・勝子が迎えた養子の純夫は、千代にとっても身近な存在。
『生きて行く私』には、純夫との交流も描かれています。
純夫は勝子の養子ですから、千代の立場から見ると義理の甥にあたります。千代が直接養子に迎えたわけではありません。
宇野千代の著作権や生家は誰が引き継いだ?
宇野千代は1996年、98歳で亡くなりました。
それでは、千代が残した小説や着物のデザイン、生まれ育った家はどうなったのでしょうか。
実は現在も、さまざまな人や団体によって大切に守られています。
著作権やブランドは株式会社宇野千代が管理
宇野千代が残した作品やデザインなどの権利管理を担っているのが、株式会社宇野千代です。
同社は、小説や着物のデザイン、「宇野千代」という名称の商標などについて、利用や商品化の窓口となっています。
千代を長年支えた秘書・藤江淳子も、かつて同社の代表を務めていました。
藤江は千代が亡くなったあとも、桜をモチーフにした商品などを通じて、その世界観を伝え続けました。
そして2023年、藤江もこの世を去っています。
現在も宇野千代の作品やデザインは、多くの人に親しまれています。
個々の権利を誰が相続したのかは公開資料だけではわかっていません。
生家は岩国市が所有、NPO法人が保存・公開
宇野千代が生まれ育った家は、山口県岩国市に今も残っています。
実はこの生家、一度は老朽化が進んでいました。
そこで1974年、千代自身が修復に取り組んだのです。
現在、生家の建物は岩国市が所有しています。
そして、保存や一般公開などの管理運営に携わっているのが、NPO法人宇野千代生家です。
生家では、千代が暮らした時代の面影を感じることができます。
宇野千代の残したものは、文学作品だけではありません。
故郷の家もまた、彼女の人生を伝える大切な場所として受け継がれているのです。
| 対象 | 現在の管理・保存 |
|---|---|
| 著作権・商標などの利用窓口 | 株式会社宇野千代 |
| 生家の所有 | 岩国市 |
| 生家の保存・公開 | NPO法人宇野千代生家 |
| 文学作品の刊行 | 出版社・権利管理者など |
宇野千代の家系図まとめ
宇野千代の家系図をたどってみると、思いがけない家族の物語が見えてきます。
造り酒屋の旧家に生まれ、厳しい父親と、愛情深い継母に育てられた千代。
4人の弟と1人の妹に囲まれ、長女として家族を支えてきました。
大人になってからは4度の結婚を経験し、作家や芸術家たちと波乱に満ちた人生を送ります。
成長して家系を継いだ実子は確認されていませんが、妹の養子・純夫や秘書の藤江淳子など、家族のように大切にしていた人たちがいました。
そして、千代が残した小説や着物のデザイン、生家は今も受け継がれています。
家系図から見えてくるのは、血のつながりだけでは語れない、宇野千代の豊かな人間関係なのかもしれません。
98歳まで自分らしく生きた千代。
その人生は、今も多くの人を惹きつけています。
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参考資料・出典:
- 宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
- 工藤美代子『愛して生きて―宇野千代伝』
- 宇野千代『残っている話』
- 宇野千代顕彰会「宇野千代私製年譜」
- NPO法人宇野千代生家 公式サイト
- 宇野千代 公式ホームページ(株式会社宇野千代)
- 岩国市関連サイト「宇野千代 ― 岩国の旅 ― 文壇へ」