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宇野千代と兄弟の関係は?5人の異母きょうだい|朝ドラ「ブラッサム」

作家・宇野千代には、4人の弟と1人の妹がいました。

5人はいずれも、父・俊次と継母・リュウの間に生まれた子どもです。

宇野千代とは母親が違いますが、同じ家で育ちました。

宇野千代は長女として弟妹の世話をよくし、「小さなお母さん」のような役割をしていたと伝わっています。

この記事では、

  • 宇野千代の兄弟は何人いたのか
  • 5人の異母きょうだいとの関係
  • 弟妹との暮らしがわかるエピソード

についてご紹介します。

宇野千代と兄弟の関係は?

宇野千代には、弟4人と妹1人、合わせて5人のきょうだいがいました。

宇野千代を含めると、6人きょうだいです。

宇野千代は、その一番上の長女でした。

宇野千代は6人きょうだいの長女

宇野千代の弟妹は、次の5人です。

名前 関係 生年
薫(かおる) 1901年
鴻(ひろし) 1904年
勝子(かつこ) 1906年
光雄(みつお) 1908年
文雄(ふみお) 1911年

薫、鴻、勝子、光雄、文雄の順に生まれています。

宇野千代は1897(明治30)年生まれです。

一番上の弟・薫とは約4歳、末弟・文雄とは約14歳離れていました。

年の離れた弟妹に囲まれた長女だったのですね。

 

5人は異母きょうだい

5人の弟妹は、宇野千代とは母親が違います

宇野千代の実母はトモです。

トモが亡くなったあと、父・俊次はリュウを後妻として迎えました。

俊次とリュウの間に生まれたのが、4人の弟と1人の妹です。

つまり宇野千代と5人は、父親が同じ異母きょうだいでした。

ただ、「異母きょうだいだから距離があった」と考えるのは少し違うようです。

宇野千代と弟妹は、一つの家族として暮らしていました。

 

宇野千代は弟妹の世話をしていた

宇野千代と兄弟の関係を知るうえで印象的なのが、弟妹の面倒をよく見ていたことです。

宇野千代は、ただ年上の姉だったわけではありません。

「小さなお母さん」のような存在

山口県の公式観光サイトでは、宇野千代が異母弟妹の世話をよくし、「小さなお母さん役」をしていたと紹介されています。

弟妹が次々と生まれるなか、宇野千代は幼い弟や妹の世話をしていました。

姉でありながら、弟妹を支える立場でもあったのでしょう。

後年、小説家の広津和郎も、宇野千代が弟妹の面倒をよく見ることに感心していたと伝えられています。

「あなたは弟妹たちを惣領のようによく面倒をみる」

(引用:山口県観光サイト「作家・宇野千代とは?」

子どものころだけではなく、大人になってからも弟妹を気にかけていたことがうかがえます。

 

継母リュウが兄弟をつないだ

宇野千代と異母きょうだいの関係を考えるうえで、継母・リュウの存在も欠かせません。

リュウは、自分が産んだ子どもと宇野千代を分け隔てなく育てたと伝わっています。

 

自伝『生きて行く私』には、その様子がわかるエピソードがあります。

近所からおはぎや饅頭をもらったときのことです。

幼い弟妹が食べたがっても、リュウは宇野千代が帰ってくるまで待たせました。

「姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ」

(引用:『生きて行く私』宇野千代)

宇野千代自身も、こうしたリュウの育て方を「継子いじめの反対」と振り返っています。

継子だった宇野千代を後回しにするのではなく、弟妹と同じように大切にしたリュウ。

宇野千代と弟妹が一つの家族として育った背景には、リュウの存在も大きかったのでしょう。

 

宇野千代と弟・薫の関係

5人の弟妹のなかでも、宇野千代との具体的なエピソードが残っているのが弟・薫です。

薫は、宇野千代に一番年齢が近い弟でした。

大人になってからも交流した

薫は1901(明治34)年生まれです。

宇野家の長男でした。

宇野千代とは幼いころから身近な存在で、大人になってからも交流が続いていました

 

その関係がわかるのが、岩国に残る宇野千代の生家にまつわるエピソードです。

1970年代になると、生家はかなり傷んでいました。

そのことを宇野千代に知らせたのが薫でした。

『故郷の家』には、薫から生家を見に行こうと誘われたことが記されています。

この連絡をきっかけに、宇野千代は故郷の家を修復することになります。

 

生家の修復は1974(昭和49)年に完成しました。

子どものころを一緒に過ごした弟とのつながりが、長い年月を経て、生家を残すことにもつながったのですね。

宇野千代と弟・妹のその後

宇野千代と弟妹の関係は、岩国で暮らした子ども時代だけではありません。

大人になってからも、弟や妹との交流が続いていました。

妹・勝子との交流

勝子は1906(明治39)年生まれです。

宇野千代にとって唯一の妹でした。

確認できた資料では、大人になってから宇野千代と勝子が一緒に暮らした時期もあったとされています。

幼いころだけで関係が途切れた姉妹ではなかったことがわかります。

弟・光雄とも一緒に暮らした

弟の光雄は1908(明治41)年生まれです。

光雄も、大人になってから宇野千代と同じ家で暮らした時期がありました。

宇野千代が画家・東郷青児と暮らしていたころ、光雄も東京・淡島の洋館で生活していたとされています。

宇野千代が故郷を離れたあとも、弟妹とのつながりは続いていたのですね。

末弟・文雄との思い出

末弟・文雄は1911(明治44)年生まれです。

宇野千代とは14歳ほど離れていました

『生きて行く私』には、幼い文雄の姿も登場します。

宇野千代が原稿料を得て岩国へ帰ったとき、家族で人力車に乗る場面があります。

まだ幼かった文雄は人力車の乗り方がわからず、踏み台のところにしゃがんでいたと宇野千代は振り返っています。

年の離れた末弟との暮らしが浮かんでくる、ほほえましいエピソードです。

 

兄弟との暮らしが宇野千代に与えた影響

では、5人の弟妹に囲まれて育った経験は、宇野千代の人生に影響したのでしょうか。

ここは、事実と解釈を分けて考える必要があります。

長女として育った宇野千代

宇野千代は幼いころから弟妹を世話し、「小さなお母さん」のような役割をしていました。

大人になってからも、弟妹との交流が続いていたことが確認できます。

山口県公式観光サイトでは、こうした宇野千代の面倒見のよさが、後年の人間関係にもつながった可能性が紹介されています。

ただし、弟妹との暮らしが性格を形成したと断定することはできません

少女時代から、人の世話をすることが日常の一部だった。

その経験は、宇野千代という人物を知るうえで興味深い背景の一つといえそうです。

参考: 山口県観光サイト「作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観」 

まとめ|宇野千代と兄弟の関係

以上、宇野千代と兄弟の関係についてご紹介しました。

宇野千代には4人の弟と1人の妹がいて、長女として弟妹の世話をよくしていたと伝わっています。

大人になってからも交流は続き、弟・薫との生家修復のエピソードなどからも、家族とのつながりがうかがえます。

朝ドラ『ブラッサム』でも、ヒロインと兄弟たちの関係がどのように描かれるのか注目したいですね。

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