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豊臣兄弟!

長宗我部元親その後どうなる?死因は?最期と晩年の悲劇|豊臣兄弟深堀り

「土佐の出来人」と呼ばれ、四国を平定した戦国大名・長宗我部元親

豊臣秀吉に降伏したあと、長宗我部元親はその後どうなるのでしょうか。

元親は長男・信親を戦で失い、晩年には後継者問題にも直面します。そして1599年、伏見で病のため亡くなりました。

この記事では、

  • 長宗我部元親はその後どうなるのか
  • 元親の死因と最期
  • 長男・信親を失ったあとの後継者問題
  • 元親の死後、長宗我部家はどうなったのか

について、順番に見ていきます。

長宗我部元親はその後どうなる?死因と最期

長宗我部元親その後どうなる

四国を平定した長宗我部元親でしたが、1585年に豊臣秀吉の四国攻めを受けて降伏。

その後は土佐一国を安堵され、豊臣政権の大名として歩んでいきます。

しかし晩年、元親は病に倒れました。

 

長宗我部元親の死因は病気

長宗我部元親の死因は、病気です。

慶長4年(1599年)4月、元親は病気療養のため、四男・盛親を伴って上洛しました。

伏見の屋敷に入り療養を続け、4月23日には豊臣秀頼にも謁見しています。

しかし5月になると病状が悪化。

慶長4年5月19日(1599年7月11日)、数え61歳で亡くなりました。

具体的な病名はわかっていません。

 

伏見で61歳の生涯を終える

元親が最期を迎えたのは、京都・伏見でした。

亡くなった翌日に京都の天龍寺で火葬され、遺骨は土佐へ送られます。

そして現在の高知市長浜にある天甫寺山に葬られました。

法号は「雪蹊恕三大禅定門」。

こうして、土佐から四国へ勢力を広げた長宗我部元親の生涯は幕を閉じました。

家督を継いだのは、四男の長宗我部盛親です。

しかし、長宗我部家のその後は決して平穏なものではありませんでした。

 

長宗我部元親は信親の死後どうなる?

元親の晩年を語るうえで欠かせないのが、長男・長宗我部信親の死です。

信親は元親が後継者として期待していた人物でした。

その突然の死によって、長宗我部家の後継者問題が一気に表面化します。

長男・信親が戸次川で戦死

天正14年(1586年)、元親と信親は豊臣秀吉の命を受け、九州へ出陣しました。

豊後の大友氏を救援するためです。

ところが戸次川の戦いで、豊臣方は島津軍に大敗。

長宗我部勢も大きな被害を受け、信親は戦死しました。

信親は数え22歳。

元親自身は戦場から脱出しましたが、後継者として育ててきた長男を失うことになります。

ここから長宗我部元親のその後は、大きく変わっていきました。

 

四男・盛親を後継者に選ぶ

信親の死後、長宗我部家では新たな後継者を決める必要がありました。

元親が選んだのは、四男・長宗我部盛親です。

元親にはほかにも、

  • 次男・香川親和
  • 三男・津野親忠

がいました。

ただし、親和は香川氏へ、親忠は津野氏へ養子に入っています。

最終的に元親は盛親を後継者としましたが、この決定をめぐって家中では対立が起こりました。

 

後継者争いで家中が混乱

盛親への家督継承をめぐり、長宗我部家の内部では混乱が広がります。

一族の吉良親実や比江山親興らは、後継者問題をめぐる対立のなかで死を命じられました。

三男・津野親忠も、元親の晩年には厳しい立場に置かれます。

信親の死をきっかけに始まった後継者問題は、長宗我部家に大きな亀裂を残しました。

一方で元親は、この時期にも領国経営を続けています。

居城を移し、検地を行い、掟書を定めるなど、土佐を治めるための仕組みを整えていました。

「信親の死後、元親は何もできなくなった」という単純な晩年ではなかったこともわかります。

 

長宗我部元親の死後、長宗我部家はどうなる?

1599年に元親が亡くなると、四男・盛親が家督を継ぎました。

しかし、そのわずか1年後。

長宗我部家の運命を大きく変える関ヶ原の戦いが起こります。

長宗我部家のその後
1599年 元親が死去し、盛親が家督を継ぐ
1600年 盛親が関ヶ原の戦いで西軍に属する
1600年 土佐一国を没収される
1614年 盛親が大坂の陣で豊臣方に加わる
1615年 大坂夏の陣で敗れ、盛親が処刑される

 

盛親は関ヶ原で西軍につく

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。

盛親は西軍に属しました。

しかし西軍は敗北。

盛親は帰国後、徳川家康に対して領国の安堵を求めましたが、認められませんでした。

長宗我部家は、元親が守り続けてきた土佐一国を失います。

 

土佐を没収され大名から浪人へ

所領を没収された盛親は、京都で暮らすことになります。

元親の時代には土佐一国を治めていた長宗我部家でしたが、関ヶ原の敗戦によって大名としての長宗我部家は事実上滅亡しました。

盛親は京都で寺子屋を開き、子どもたちに読み書きを教えていたとも伝えられています。

しかし、そこで終わりではありません。

盛親には、再び武将として戦う機会が訪れます。

 

盛親は大坂の陣で最期を迎える

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼と徳川家康の対立から大坂冬の陣が始まります。

盛親は豊臣方として大坂城に入りました。

翌1615年の大坂夏の陣では、八尾方面で藤堂高虎の軍と激突。

盛親の軍は藤堂勢に大きな損害を与えます。

しかし、豊臣方は敗北し、大坂城は落城しました。

盛親は逃れたものの、その後捕らえられます。

そして1615年5月15日、京都・六条河原で処刑されました。

元親が亡くなってから、わずか16年後のことでした。

長宗我部家はその後どうなった?

盛親の死によって、戦国大名としての長宗我部家は終わりを迎えました。

ただし、長宗我部氏の血筋そのものが完全に途絶えたわけではありません。

 

元親直系は途絶える

大坂の陣後、盛親の男子たちも追及を受けました。

そのため、元親から盛親へと続いた嫡流は途絶えたとされています。

土佐から四国へ勢力を広げた長宗我部家でしたが、元親の死からわずかな期間で大名家として姿を消すことになりました。

 

長宗我部の血筋は傍系に続いた

一方、元親の兄弟などから続く傍系の血筋は、その後も残りました。

つまり、

「長宗我部家は完全に途絶えた」というわけではありません。

元親の子供たちや子孫、その後の血筋については、こちらの記事で詳しく紹介しています。

長宗我部元親の子孫の現在は?家系図と子供たちの運命

 

まとめ|長宗我部元親はその後どうなる?

長宗我部元親は豊臣秀吉に降伏したあとも土佐を治めましたが、1586年に長男・信親を戸次川の戦いで失いました。

その後は四男・盛親を後継者に定め、1599年に伏見で病死。元親の死後、盛親は関ヶ原で西軍に属し、土佐を没収されます。

さらに盛親は大坂の陣で豊臣方として戦い、1615年に処刑されました。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、長宗我部元親が豊臣政権のなかでどんな道をたどるのかにも注目したいですね。

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