長宗我部元親といえば、土佐から勢力を広げ、四国の大部分を平定した戦国大名です。
ところが、嫡男・信親の戦死をきっかけに、長宗我部家では後継者問題が起こります。やがて大名家としての地位も失うことになりました。
この記事では、
- 長宗我部元親の子孫は現在もいるのか
- 家系図で見る子供たちの運命
- 長宗我部家の本家筋と傍系のその後
長宗我部元親の子孫は現在もいる?
長宗我部元親の子孫について、「大坂の陣で途絶えた」と聞いたことがある方も多いかもしれません。
ただ、正確には少し違います。元親の四男・盛親につながる長宗我部家の本家筋は、大坂の陣後に途絶えました。
一方、元親の弟・島親益の系統や、娘・阿古姫から続く血筋は後世に残っています。つまり、長宗我部家の本家筋は断絶しましたが、元親の血縁や一族の系統まで消えたわけではありません。
長宗我部友親氏は17代当主
近年まで長宗我部家の当主として知られていたのが、長宗我部友親氏です。
友親氏は1942年生まれ。共同通信社に勤務したのち、歴史作家として『長宗我部』『秦氏の夢 長宗我部元親』などを執筆しました。出版社や国立国会図書館の資料では、「長宗我部氏17代当主」と紹介されています。
ただし、友親氏は元親の息子から続く本家筋ではありません。家系は、元親の弟・親房(島親益)の系統とされています。
友親氏には子供がおらず、生前のインタビューでも、養子を迎えて無理に家名を残す考えはないと語っていました。
2025年10月11日、友親氏は83歳で死去。友親氏が当主を務めていた家は、後継者を置かないまま一区切りを迎えました。
元親の血筋は阿古姫の系統にも続いた
元親自身の血筋は、娘の系統にも続いています。その一人が阿古姫です。
阿古姫は佐竹親直に嫁ぎ、子供をもうけました。大坂の陣後、阿古姫と子供たちは伊達家側に保護されます。
息子の一人は柴田朝意と名乗り、仙台藩の重臣として仕えました。
盛親の系統が絶えたあとも、元親の血は娘の系統へ受け継がれていったのです。
長宗我部元親の子供と家系図

長宗我部元親には、正室・石谷光政の娘との間に信親、親和、親忠、盛親らが生まれました。
正室の実名は分かっていません。ただ、石谷家文書から、石谷光政が元親の義父だったことは確認されています。
主な子供を整理すると、次のようになります。
| 子供 | その後 |
|---|---|
| 長男・信親 | 元親の嫡男。1586年、戸次川の戦いで戦死 |
| 次男・香川親和 | 香川家を継ぐ。信親の死後、後継候補となる |
| 三男・津野親忠 | 津野家を継ぐ。後継者争いに巻き込まれる |
| 四男・盛親 | 元親の後継者。関ヶ原後に改易され、大坂の陣後に処刑 |
| 阿古姫 | 佐竹親直に嫁ぎ、子供たちは仙台藩に仕える |
このほかにも、後世の系図や伝承では元親の子とされる人物がいます。
ただし、文親や康豊などは史料によって扱いが異なります。そのため、確実な人物と同列に並べるより、「伝承にみえる子」として分けて考えた方がよさそうです。
長宗我部元親の子供たちの運命
元親の子供たちの運命を大きく変えたのが、嫡男・信親の戦死でした。
信親を失ったことで、長宗我部家では「次の当主を誰にするのか」という問題が一気に表面化します。
嫡男・信親の戦死
信親は1565年に生まれた元親の長男です。
父・元親から大きな期待をかけられ、長宗我部家の後継者とみられていました。
しかし1586年、豊臣秀吉の命による九州出兵に参加。戸次川の戦いで島津軍と戦い、信親は討死しました。
長宗我部家にとって大きな転機です。
信親の死によって、後継者をあらためて決める必要が生じました。
四男・盛親が後継者に
信親の死後、次男・香川親和や三男・津野親忠も後継候補となりました。
しかし、元親が選んだのは四男・盛親です。この決定をめぐり、家中では対立が起こりました。盛親の後継に反対した吉良親実や比江山親興らは処罰されます。
次男・親和は家督を継ぐことなく死去。高知県の資料では、失意から病死したとも、断食して亡くなったとも伝えられています。
三男・親忠は、家臣から後継者候補に推されたことで元親の不信を買い、岩村に幽閉されました。
元親の死後、親忠は盛親側によって殺害されたと伝わりますが、家臣の独断だったとする説もあります。後継者問題は長宗我部家を大きく揺らすことになりました。
盛親と長宗我部家の最期
1599年に元親が亡くなると、盛親が長宗我部家を率います。
ところが翌1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に土佐一国を没収されました。
ここで、大名としての長宗我部家はいったん終わります。
その後、盛親は京都で暮らし、寺子屋の師匠をしていたとも伝えられています。
1614年に始まった大坂の陣では、豊臣方として参戦しました。
翌1615年、大坂夏の陣で豊臣方が敗れると、盛親は捕らえられて処刑。
盛親の息子たちも処刑され、長宗我部家の本家筋はここで途絶えました。
長宗我部元親の血筋をつないだ人々
本家筋は途絶えましたが、一族の系統まで消えたわけではありません。
元親の弟や娘の系統は、別の土地で続いていきました。
島親益の系統
長宗我部友親氏につながるのが、元親の弟・親房の系統です。
親房は島氏を名乗ったことから、島親益とも呼ばれます。
盛親の系統が絶えたあとも、この系統は残りました。のちに長宗我部姓を名乗り、近代まで家名を伝えています。
友親氏が「17代当主」と呼ばれていたのも、この系統によるものです。
阿古姫の系統
元親の娘・阿古姫の系統も残りました。
阿古姫は佐竹親直と結婚。大坂の陣後、阿古姫と息子たちは伊達家に保護されます。
息子の一人は柴田朝意、もう一人は五十嵐元成と名乗り、仙台藩に仕えました。
こうして見ると、「大坂の陣で長宗我部の血が完全に途絶えた」というわけではありません。
家名を失った家もありましたが、元親の血筋は別の家へ受け継がれました。
長宗我部元親|姫若子から四国の覇者へ
子供や子孫の流れを知ると、元親自身の生涯もより分かりやすくなります。
一代で勢力を広げた元親ですが、晩年には後継者問題に苦しむことになりました。
姫若子と呼ばれた若き日の元親
長宗我部元親は1539年、岡豊城主・長宗我部国親の子として生まれました。
少年時代はおとなしく、「姫若子」と呼ばれていたと伝わります。
初陣は1560年。22歳のとき、本山氏との戦いで初陣を迎えました。
高知市の資料では、この戦いで周囲を驚かせる活躍を見せたとされています。
後世には「鬼若子」と呼ばれるようになったという逸話も伝わりました。
初陣の翌月、父・国親が死去。
元親は家督を継ぎ、勢力拡大へ動き始めます。
四国平定から晩年まで
元親は約15年で土佐を統一。さらに勢力を四国各地へ広げ、1585年には四国の大部分を平定しました。
しかし同年、豊臣秀吉による四国征伐を受けて降伏します。元親に認められたのは、土佐一国の領有でした。
翌1586年、戸次川の戦いで嫡男・信親が戦死。
ここから長宗我部家では、後継者問題が表面化していきます。
一方、元親は領内の検地や法令の整備など、領国経営も進めました。
1599年4月、病気療養のため盛親とともに上洛。5月19日、伏見の屋敷で61歳の生涯を閉じました。
高知市の文化財資料では、元親の遺言によって翌20日に京都・天龍寺で火葬され、遺骨が土佐へ送られたとされています。
まとめ|長宗我部元親の子孫と子供たち
以上、長宗我部元親の子孫と子供たちについてご紹介しました。
盛親につながる本家筋は大坂の陣後に途絶えましたが、元親の弟・島親益の系統や、娘・阿古姫から続く血筋は後世に残りました。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、長宗我部元親を[Alexandros]の磯部寛之さんが演じています。
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