作家・宇野千代は、生涯に何度も恋愛や結婚を経験したことで知られています。
その最初の結婚は、なんと14歳のとき。
しかも、結婚生活はわずか10日ほどでした。
この記事では、
- 宇野千代の結婚が10日で終わった理由
- 宇野千代が14歳で結婚した経緯
- 宇野千代の最初の夫・藤村亮一
- 宇野千代の10日間の結婚生活
についてご紹介します。
宇野千代の結婚が10日で終わったのはなぜ?
宇野千代は1911年、14歳で従兄の藤村亮一のもとへ嫁ぎます。
ところが、結婚生活はわずか10日ほど。
宇野千代は婚家を離れて実家へ戻り、そのまま結婚生活は終わりました。
なぜ、これほど短期間で終わったのでしょうか。
14歳で突然の結婚
宇野千代の最初の結婚は、自分で相手を選んだものではありません。
嫁入りを決めたのは、父・宇野俊次でした。
宇野千代は自伝『生きて行く私』で、父から突然こう告げられたと振り返っています。
「われあ、早やじきに、鉄砲小路の家に嫁入りするのじゃぞ。」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
「鉄砲小路の家」とは、生母・トモの姉が暮らしていた家です。
そこにいたのが、従兄の藤村亮一でした。
宇野千代は伯母の家を訪れたあと、亮一に送られて帰宅します。
そのことをきっかけに、父・俊次から亮一のもとへ嫁ぐよう言われたのです。
当時の宇野千代は、まだ岩国高等女学校に通う14歳。
山口県公式観光サイトでは、幼い宇野千代にとって、厳しい父への「絶対服従」が当たり前だったと紹介されています。
父から嫁入りを告げられた宇野千代も、強く反対したわけではありませんでした。
自分で望んだ恋愛結婚というより、父の意向で突然決まった結婚だったことがうかがえます。
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結婚生活は10日で終わった
こうして藤村亮一のもとへ嫁いだ宇野千代。
しかし、婚家での暮らしは長く続きません。
山口県公式観光サイトでは、次のように紹介されています。
「若すぎた2人の結婚はうまくいかず、千代は10日で実家へ戻ることになった」
(引用:山口県観光サイト」)
つまり、わずか10日ほどで実家へ戻ったことになります。
ただ、なぜ結婚生活がこれほど短く終わったのか、詳しい事情までは分かっていません。
夫婦の間で何があったのか。
なぜ実家へ戻ることになったのか。
今回確認した資料からは、そこまで詳しく読み取ることはできませんでした。
確かなのは、14歳の宇野千代にとって、父の意向で突然始まった結婚だったこと。
まだ14歳だった宇野千代にとって、突然始まった結婚生活には戸惑うことも多かったのかもしれませんね。
⇒ブラッサム木村享一のモデルは?宇野千代の結婚と離婚を史実から解説
宇野千代はなぜ14歳で結婚した?
現在の感覚では、14歳で結婚したと聞くと驚きますよね。
その背景にあったのが、父・俊次の存在です。
父・俊次が嫁入りを決めた
宇野千代の父・俊次は、子どもに厳しい父親だったとされています。
一方で、競馬や博打など、さまざまな道楽を楽しんでいた人物でもありました。
山口県公式観光サイトでも、そうした俊次の姿が紹介されています。
そんな父のもとで育った宇野千代にとって、父の言葉に従うことは当たり前だったようです。
14歳の結婚も、その延長にありました。
父から突然嫁入りを告げられ、藤村亮一のもとへ向かうことになった宇野千代。
自ら結婚を望んだわけではありません。
父・俊次が決めた嫁入りだったのです。
宇野千代はまだ女学校の生徒
結婚当時、宇野千代は岩国高等女学校の生徒でした。
関連する年譜には、1911年に「14歳で十日嫁入り」と記されています。
岩国高等女学校を卒業するのは、3年後の1914年。
つまり、最初の結婚は女学校を卒業する前の出来事でした。
山口県公式観光サイトには、錦帯橋の写真とともに「嫁に行った10日間、学校帰りの千代が通った錦帯橋」という説明もあります。
嫁いだあとも、宇野千代は女学校へ通っていたのですね。
妻となった一方で、学校生活を送る14歳の少女でもありました。
そう考えると、結婚による環境の変化はかなり大きかったのではないでしょうか。
宇野千代の最初の夫は藤村亮一
宇野千代が14歳で嫁いだ相手は、一般に藤村亮一と紹介されています。
まったく知らない男性ではありません。
藤村亮一は、宇野千代の親族でした。
藤村亮一は宇野千代の従兄
藤村亮一は、生母・トモの姉の息子です。
宇野千代にとっては従兄にあたります。
ただし、名前の表記には違いがあります。
宇野千代顕彰会の「宇野千代私製年譜」では「藤村雄一」となっています。
のちに弟・藤村忠と結婚した
宇野千代と藤村家との縁は、この10日間だけでは終わりません。
のちに結婚する藤村忠は、亮一の弟でした。
宇野千代は1915年に岩国を離れ、京城へ渡ります。
翌年に帰国すると、京都にいた藤村忠を頼りました。
その後、2人は一緒に暮らし始めます。
1917年、忠が東京帝国大学へ進学すると、宇野千代も東京へ。
1919年、22歳のときに正式に結婚しました。
さらに忠の就職に伴い、夫婦は札幌へ移ります。
札幌で宇野千代が書いたのが『脂粉の顔』です。
この作品は1921年、時事新報の懸賞小説で一等に選ばれました。
小説家・宇野千代が世に出る大きな転機となります。
14歳で亮一と短い結婚を経験し、その後は弟の忠と結婚。
宇野千代の若い時代には、藤村家との深い縁があったことが分かります。
宇野千代の10日間の結婚生活
わずか10日間だったため、宇野千代と藤村亮一の結婚生活について残された情報は多くありません。
ここでは、資料から分かる範囲を見ていきましょう。
婚家から女学校へ通っていた
宇野千代は、結婚しても学校を辞めていません。
嫁いだあとも女学校へ通っていました。
山口県公式観光サイトでは、嫁いでいた10日間、学校帰りに錦帯橋を通っていたことが紹介されています。
婚家と学校を行き来する毎日。
今の感覚では、少し想像しにくい生活ですよね。
やがて宇野千代は実家へ戻り、再び女学校での生活を続けます。
1914年3月には岩国高等女学校を卒業。
その後、小学校の代用教員として働き始めました。
98年に及ぶ宇野千代の人生から見ると、14歳での結婚はほんの短い出来事です。
それでも、まだ女学生だった宇野千代が父の意向で嫁ぎ、10日ほどで実家へ戻ったというエピソードは、とても印象に残ります。
約10日で実家へ戻った
宇野千代の年譜には、この出来事が「十日嫁入り」と記されています。
山口県公式観光サイトでも、10日で実家へ戻ったと紹介されています。
なぜわずか10日で実家へ戻ったのか、詳しい事情までは分かっていません。
まだ14歳だった宇野千代にとって、突然始まった結婚生活には戸惑うことも多かったのかもしれませんね。
短い結婚生活のあと、宇野千代は女学校を卒業。
教師となり、やがて岩国を離れていきます。
その後は京城、京都、東京、札幌へ。
次々と場所を変えながら、自分の人生を歩んでいきました。
14歳のときは、父が決めた相手に嫁いだ宇野千代。
その後は、自分自身で大きな決断を重ねるようになります。
「十日嫁入り」は、98年にわたる宇野千代の人生の、まだほんの始まりだったのでしょう。
まとめ|宇野千代の14歳の結婚と10日間
以上、宇野千代が14歳で経験した最初の結婚についてご紹介しました。
宇野千代は父・俊次の意向で従兄の藤村亮一へ嫁ぎましたが、約10日で実家へ戻っています。
まだ女学校に通っていた14歳の宇野千代にとって、突然始まった結婚生活だったことも大切なポイントです。
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参考:
山口県観光サイト「作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観」
本の話
宇野千代顕彰会「宇野千代私製年譜」