宇野千代が22歳のときに結婚した藤村忠。
二人は札幌で暮らし、宇野千代はその生活の中で小説家への一歩を踏み出しました。
ところが1922年、東京で作家・尾崎士郎と出会います。そのまま札幌へ戻らず、1924年には藤村忠との離婚が成立しました。
この記事では、
- 宇野千代と藤村忠が離婚した経緯
- 藤村忠との札幌生活
- 尾崎士郎との出会い
宇野千代と藤村忠はなぜ離婚した?

宇野千代と藤村忠の結婚生活が大きく動いたのは、1922年です。
宇野千代は東京で尾崎士郎と出会うと、藤村忠の待つ札幌へは戻らず、そのまま東京で尾崎士郎と暮らし始めました。そして1924年4月2日、藤村忠との協議離婚が成立します。
流れを整理すると、次のようになります。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1919年 | 藤村忠と結婚 |
| 1920年 | 夫婦で札幌へ |
| 1921年 | 『脂粉の顔』が懸賞小説で一等 |
| 1922年 | 東京で尾崎士郎と出会う |
| 1923年 | 尾崎士郎と馬込で暮らす |
| 1924年 | 藤村忠との協議離婚が成立 |
藤村忠との間で、離婚についてどのような話し合いがあったのかまでは詳しく伝わっていません。
ただ、尾崎士郎との出会いを境に、宇野千代が札幌へ戻らなくなったことは確認できます。
宇野千代は後年、『自伝的恋愛論』の中で、当時の尾崎士郎の言葉を紹介しています。
「道徳、法律それ等はすべて欲求の背後にある。」
(引用:『自伝的恋愛論』宇野千代)
この言葉には、当時の二人を取り巻く状況が表れています。
尾崎士郎は新聞で、宇野千代に養われる「若い燕」のように扱われたことに反発していました。その流れで出てくるのが、この「道徳、法律」という言葉です。
当時、宇野千代にはまだ藤村忠という夫がいました。
それでも尾崎士郎は、世間の道徳や法律より先に、自分たちには一緒に生活する現実があると考えていたことがうかがえます。
ただし、この言葉そのものが「離婚理由」だったわけではありません。
確認できるのは、宇野千代が尾崎士郎と暮らし始め、その約2年後に藤村忠との協議離婚が成立したという流れです。
宇野千代と藤村忠の札幌生活
離婚までの流れを見たところで、ここからは少し時代をさかのぼり、二人の札幌生活を見てみましょう。
札幌で過ごした時間は、宇野千代にとって大きな転機となりました。藤村忠との結婚生活だけでなく、小説家・宇野千代の出発点にもなったからです。
藤村忠との結婚
藤村忠は、宇野千代の従兄にあたります。
19歳だった宇野千代は、京都で学生生活を送っていた藤村忠を頼り、一緒に暮らすようになりました。その後、藤村忠の東京帝国大学進学に伴って上京します。
宇野千代も料理店の給仕など、さまざまな仕事をしながら暮らしていました。
1919年8月、22歳で藤村忠と結婚。翌1920年、藤村忠が北海道拓殖銀行に就職したため、夫婦は札幌へ移りました。
札幌での宇野千代は家事をこなしながら、女学校時代に身につけた裁縫を生かして仕立物もしていました。
まだ「作家・宇野千代」として知られる前のことです。
札幌で小説家への転機
大きな転機は1921年に訪れます。
宇野千代が書いた『脂粉の顔』が、時事新報の懸賞小説で一等に入選したのです。賞金は200円でした。
同じ懸賞で二等に選ばれていたのが、のちに出会う尾崎士郎です。
『脂粉の顔』で手応えを得た宇野千代は、続いて『墓を発く』を書き、中央公論社へ送ります。
ところが、なかなか返事がありません。
「原稿はどうなったのだろう」
気になった宇野千代は、採否を確かめるため東京へ向かいました。
この東京行きが、藤村忠との結婚生活にも大きな変化をもたらすことになります。
尾崎士郎との出会いと東京生活
札幌から東京へ出た宇野千代。
目的は、中央公論社へ送った『墓を発く』の行方を確かめることでした。しかし、この東京行きから人生は思いがけない方向へ進んでいきます。
『墓を発く』が掲載
東京へ着いた宇野千代は中央公論社を訪ねました。
送った『墓を発く』がどうなったのか尋ねると、編集長の瀧田樗陰は雑誌を見せます。
「ここに出てますよ、原稿料も持って行きますか」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
『墓を発く』は、すでに『中央公論』1922年5月号への掲載が決まっていました。
原稿料は366円。
宇野千代はそのお金を手に、故郷の岩国へ帰省します。
札幌で始めた小説が評価され、原稿料まで受け取った宇野千代。作家としての道が、いよいよ現実のものになり始めていました。
尾崎士郎との出会い
岩国で過ごしたあと、宇野千代は藤村忠のいる札幌へ戻る予定でした。
その途中、東京で列車を乗り継ぐ時間を使い、もう一度中央公論社へ立ち寄ります。そこで紹介されたのが尾崎士郎でした。
『脂粉の顔』が一等になった懸賞小説で、二等に選ばれていた人物です。
二人は意気投合。
宇野千代は駅へ戻らず、そのまま尾崎士郎と東京で暮らし始めました。
翌1923年には馬込へ移ります。
当時の馬込には、川端康成や萩原朔太郎など、多くの文学者が集まっていました。のちに「馬込文士村」と呼ばれる場所です。
銀行員の妻として暮らした札幌から、文学者たちに囲まれる東京へ。
宇野千代を取り巻く環境は、一気に変わりました。
藤村忠と離婚した後の宇野千代
1924年4月2日、藤村忠との協議離婚が成立しました。
同じころ、宇野千代は「藤村千代」ではなく、「宇野千代」の名で作品を発表するようになります。
札幌では、藤村忠の妻として暮らしながら小説を書き始めました。そして東京へ出ると、尾崎士郎との生活が始まり、文学者との交流も広がっていきます。
結婚や離婚だけを見ると、「恋多き女性」という印象が強い宇野千代。
しかし、時系列で追うと流れがよく見えてきます。
札幌で小説を書く
↓
『脂粉の顔』が入選
↓
『墓を発く』が『中央公論』に掲載
↓
東京で尾崎士郎と出会う
↓
藤村忠と離婚
藤村忠との離婚は、作家・宇野千代の人生が大きく動き始めた時期とも重なっていたのです。
まとめ|宇野千代と藤村忠の離婚
以上、宇野千代と藤村忠の離婚についてご紹介しました。
宇野千代は藤村忠と札幌で暮らす中で小説を書き始め、1922年に東京で尾崎士郎と出会いました。そのまま札幌へは戻らず、1924年4月2日に藤村忠との協議離婚が成立しています。
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