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朝ドラ

宇野千代は札幌へなぜ行った?北海道で小説家への道が開けた理由

宇野千代は1920年、夫の藤村忠とともに北海道の札幌へ移りました。

札幌へ向かった直接の理由は、藤村忠が北海道拓殖銀行に就職したことです。

この札幌生活のなかで『脂粉の顔』が懸賞小説の一等に選ばれ、宇野千代は小説家への一歩を踏み出しました。

この記事では、

  • 宇野千代が札幌へ行った理由
  • 宇野千代と藤村忠の札幌での暮らし
  • 北海道で『脂粉の顔』を書いた経緯
  • 宇野千代が札幌を離れた理由
についてご紹介します。

宇野千代は札幌へなぜ行った?

宇野千代が札幌へ行ったのは、文学活動のためではありませんでした。

まずは、宇野千代が北海道へ移るまでの経緯からみていきましょう。

藤村忠の就職がきっかけ

宇野千代が札幌へ行った直接の理由は、夫・藤村忠の就職です。

藤村忠は、宇野千代が14歳のときに結婚した藤村亮一の弟でした。

宇野千代は1916年、京都で学生生活を送っていた藤村忠を頼り、同棲生活を始めます。

藤村忠が東京帝国大学へ進学すると、宇野千代も一緒に東京へ移りました。

1919年、宇野千代と藤村忠は正式に結婚します。

翌1920年、藤村忠は東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行へ就職しました。

勤務先は札幌支店です。

宇野千代は藤村忠に同行し、札幌で暮らし始めました。

つまり、宇野千代が札幌へ行ったのは、藤村忠が北海道拓殖銀行札幌支店に勤めることになったためです。

1920年に北海道へ移住

宇野千代が北海道へ移ったのは、1920年(大正9年)です。

札幌へ移るまでの流れを整理すると、次のようになります。


  • 1916年 藤村忠と京都で暮らし始める

    宇野千代は京城から帰国したあと、京都で学生生活を送っていた藤村忠を頼りました。


  • 1917年 藤村忠と東京へ移る

    藤村忠の東京帝国大学進学に伴い、宇野千代も東京へ移りました。


  • 1919年 藤村忠と結婚

    宇野千代と藤村忠は、東京で正式に結婚しました。


  • 1920年 札幌へ移住

    藤村忠の北海道拓殖銀行への就職に伴い、夫婦で札幌へ移りました。


岩国や京城、京都、東京と移り住んできた宇野千代にとって、札幌は新たな生活の場所となりました。

同時に札幌は、宇野千代が作家として世に出るきっかけをつかんだ土地でもあります。

宇野千代と藤村忠の札幌生活

札幌へ移った宇野千代は、藤村忠との家庭生活を送りながら創作を続けました。

札幌での暮らしを、もう少し詳しくみていきましょう。

仕立物で家計を支えた

札幌時代の宇野千代は、家事をこなしながら、仕立物の仕事にも取り組んでいました。

宇野千代は女学校で裁縫を学んでいました。

その技術を生かし、着物などの仕立てを請け負っていたとされています。

のちに着物デザイナーとしても活躍する宇野千代ですが、札幌時代にはすでに裁縫の技術を暮らしに役立てていました。

宇野千代は貯蓄にも励み、頼母子講にも参加していました。

頼母子講とは、複数の人がお金を出し合い、順番にまとまったお金を受け取る仕組みです。

札幌での宇野千代は、小説だけを書いて暮らしていたわけではありません。

家庭を支えながら、生活の合間に創作を続けていたのです。

文芸同人誌『啓明』に参加

札幌で宇野千代は、文芸同人誌『啓明』に参加しました。

『啓明』は全7号が発行されたとされています。

宇野千代は、札幌へ移ってから突然文学に目覚めたわけではありません。

女学校時代には、校友会雑誌に作文を発表していました。

代用教員として働いていた時期には、文学仲間と回覧雑誌『海鳥』を作っています。

東京時代には新聞の懸賞小説へ応募し、賞金を得た経験もありました。

こうした創作と投稿の積み重ねが、札幌での『脂粉の顔』執筆につながったと考えられます。

宇野千代が札幌で『脂粉の顔』を執筆

札幌時代の宇野千代に、大きな転機が訪れます。

短編小説『脂粉の顔』が、新聞の懸賞小説で一等に選ばれたのです。

『時事新報』の懸賞で一等に

宇野千代は札幌で短編小説『脂粉の顔』を書き上げ、『時事新報』の懸賞小説へ応募しました。

1921年1月、『脂粉の顔』は一等に入選します。

当選結果は次のとおりです。

結果 作者
一等 宇野千代
二等 尾崎士郎
三等 八木東作
選外 横光利一など

二等に選ばれたのは、のちに宇野千代と結婚する尾崎士郎でした。

選外には、のちに小説家として活躍する横光利一も名を連ねています。

ただし、この懸賞が宇野千代と尾崎士郎の出会いだったわけではありません

宇野千代が尾崎士郎と暮らし始めるのは、懸賞入選よりあとのことです。

賞金200円を獲得

宇野千代が『脂粉の顔』の一等入選で手にした賞金は、200円でした。

当時の200円は、現在の感覚ではどのくらいなのでしょうか。

大正末期の大卒会社員の初任給は、月50〜60円ほどだったとされています。

200円は、その約3〜4か月分です。

現在の大卒初任給と比べると、おおよそ70万〜100万円ほどの感覚と考えられます。

当時と現在では生活環境や物価が異なるため、正確に換算することはできません。

あくまでも、賃金を基準にした目安です。

それでも、宇野千代にとって200円が大きな賞金だったことは間違いありません。

自分が書いた文章がお金になる。

小説を書くことで生きていけるかもしれない。

『脂粉の顔』の一等入選は、宇野千代が小説を書くことを仕事として意識する転機になりました。

宇野千代が札幌から上京した理由

『脂粉の顔』の入選後、宇野千代は次の作品を書き上げました。

そして、その作品の掲載結果を確かめるため、札幌から東京へ向かいます。

『墓を発く』の原稿を送る

『脂粉の顔』に続いて宇野千代が書いたのが、『墓を発く』です。

「墓を発く」は「はかをあばく」と読みます。

宇野千代は『墓を発く』の原稿を、『中央公論』編集長の瀧田樗陰へ送りました。

瀧田樗陰とは、宇野千代が東京の洋食店・燕楽軒で働いていたころに面識がありました。

宇野千代は原稿を送ったものの、何か月待っても返事がありませんでした。

掲載されるのか、それとも不採用なのか。

結果が気になった宇野千代は、直接確認するため東京へ行くことにしました。

掲載結果を確かめに東京へ

1922年4月、宇野千代は『墓を発く』の採否を確認するため、札幌から単身で上京しました。

瀧田樗陰を訪ねると、『墓を発く』はすでに『中央公論』1922年5月号への掲載が決まっていました。

作品は、当時の姓である藤村千代名義で掲載されています。

宇野千代は、原稿料として366円を受け取りました。

『脂粉の顔』の賞金200円を上回る金額です。

宇野千代は原稿料を受け取ると、その日のうちに故郷の岩国へ向かいました。

札幌で書いた作品が評価され、『中央公論』という大きな発表の場を得たことで、宇野千代は本格的に小説家として歩み始めます。

宇野千代の札幌生活が終わった経緯

『墓を発く』の掲載は、宇野千代の作家人生だけでなく、私生活も大きく変えることになりました。

宇野千代は札幌へ戻らず、東京で新しい生活を始めます。

原稿料を受け取って岩国へ

宇野千代は『墓を発く』の原稿料を受け取ると、故郷の岩国へ帰りました

岩国では、継母や祖母に原稿料の一部を渡したとされています。

作品を書いて得たお金を家族へ渡したことからも、原稿料が宇野千代にとって大きな収入だったことがわかります。

その後、宇野千代は札幌へ戻ろうとしました。

しかし、北海道へ向かう途中で再び東京に立ち寄ります

宇野千代は、そのまま藤村忠が待つ札幌へ帰ることはありませんでした。

尾崎士郎と暮らし始める

東京で宇野千代が親しくなったのが、作家の尾崎士郎です。

尾崎士郎は、『脂粉の顔』が一等になった『時事新報』の懸賞で二等に選ばれていました。

宇野千代と尾崎士郎は意気投合し、東京で同棲生活を始めます。

この出来事によって、宇野千代と藤村忠の札幌生活は終わりました。

宇野千代と藤村忠が正式に離婚したのは、1924年4月です。

宇野千代はその後、尾崎士郎とともに東京で暮らしながら、小説を発表していきました。

札幌を離れるまでの流れを整理すると、次のようになります。


  • 1921年 『脂粉の顔』が一等に入選

    札幌で書いた『脂粉の顔』が、『時事新報』の懸賞小説で一等に選ばれました。


  • 1921年 『墓を発く』を執筆

    宇野千代は『墓を発く』を書き、瀧田樗陰へ原稿を送りました。


  • 1922年4月 掲載結果を確認するため上京

    宇野千代は東京で、『墓を発く』の『中央公論』掲載が決まっていたことを知りました。


  • 1922年 原稿料を受け取って岩国へ

    原稿料366円を受け取り、故郷の岩国へ向かいました。


  • 1922年 尾崎士郎と同棲を始める

    北海道へ戻る途中で東京に立ち寄り、尾崎士郎と暮らし始めました。


資料によっては、「『脂粉の顔』の懸賞入選を受けて上京した」と短く説明されることがあります。

詳しい年譜では、実際に宇野千代が上京したのは、次に書いた『墓を発く』の掲載結果を確かめるためだったとされています。

宇野千代は北海道で小説家への道を開いた

宇野千代が札幌へ行った理由は、夫・藤村忠の就職でした。

しかし、札幌で過ごした時間は、宇野千代の人生を大きく変えることになります。

札幌で作家デビュー

札幌時代に書いた『脂粉の顔』が一等に入選し、宇野千代は作家として世に出ました

続いて書いた『墓を発く』も、『中央公論』への掲載が決まります。

宇野千代は札幌へ移る前から文学活動を続けていました。

作品が広く評価され、小説家への道が形になったのが札幌時代だったのです。

北海道での生活がなければ同じ作品が生まれなかった、とまでは断定できません。

それでも、札幌が宇野千代の作家人生における重要な土地だったことは、確認できる経歴からもわかります。

暮らしと創作が大きく変わる

宇野千代は、藤村忠の就職に同行する形で札幌へ移りました。

札幌では家事や仕立物をしながら、小説を書き続けます。

その作品が懸賞で評価され、まとまった賞金や原稿料を得ました。

やがて宇野千代は札幌を離れ、東京で作家として活動する道を選びます。

札幌で過ごした期間は長くありません。

しかし、家庭生活を送りながら創作を続けた時期から、小説を仕事にする生活へ進んだ転換期となりました。

朝ドラ『ブラッサム』で宇野千代をモデルとする主人公の創作活動が描かれるなら、札幌時代は見逃せない時期になりそうですね。

まとめ

以上、宇野千代が札幌へ行った理由と、北海道で小説家への道が開けた経緯についてご紹介しました。

宇野千代が札幌へ移った直接の理由は、夫・藤村忠が北海道拓殖銀行札幌支店へ就職したことです。

札幌では家事や仕立物に励む一方、文芸同人誌『啓明』に参加しました。

そして、札幌で書いた『脂粉の顔』が『時事新報』の懸賞小説で一等に入選します。

続く『墓を発く』も『中央公論』への掲載が決まり、宇野千代は本格的に小説家として歩み始めました。

宇野千代にとって札幌は、夫の仕事に伴って移り住んだ土地であり、小説家への道を開いた大切な場所でもあったのです。

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