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宇野千代と佐伯正夫はどんな関係?教師時代の恋を解説|ブラッサム深掘り

宇野千代は小学校の代用教員として働いていたころ、同僚教師の佐伯正夫と恋愛関係になりました。

教え子に恋文を運んでもらっていたことが周囲に知られ、宇野千代は教職を追われます。

その後、宇野千代は人の噂を避けるように岩国を離れ、当時の朝鮮・京城へ渡りました。

この記事では、

  • 佐伯正夫はどのような人物だったのか
  • 宇野千代と佐伯正夫の出会い
  • 教え子が恋文を運んだとされる出来事
  • 宇野千代が教職を追われた経緯
  • 京城で絶縁状を受け取るまで

についてご紹介します。

 

宇野千代と佐伯正夫はどんな関係?

宇野千代と佐伯正夫は、川下村尋常高等小学校で働いていた同僚教師です。

同じ学校で出会い、やがて恋愛関係になりました。

川下村小学校の同僚教師

宇野千代は1914年、岩国高等女学校を卒業しました。

卒業後、川下村尋常高等小学校の代用教員として働き始めます。

資料によっては、勤務先が「川下村小学校」や「川下尋常小学校」と表記されています。

代用教員とは、正規の教員資格を持つ教師が不足していた時代に、一定の学力を認められて教壇に立った教員です。

宇野千代は、学校で全教科を担当していたとされています。

一方の佐伯正夫は、師範学校を卒業した正規教員でした。

1915年、佐伯正夫は新任教師として宇野千代の勤務先へ赴任します。

二人は、同じ小学校で働く同僚として出会ったのです。

二人は恋愛関係になった

同じ学校で働くなかで、宇野千代は佐伯正夫にひかれていきました。

宇野千代の回想では、佐伯正夫は色白で、ひげをそった跡が青く見える、やさしそうな男性として描かれています。

宇野千代にとって、佐伯正夫は強く心を動かされた相手だったことがうかがえます。

ただし、佐伯正夫本人の詳しい経歴は、今回確認した資料ではほとんど紹介されていません。

生年月日や出身地、その後の職歴なども確認できませんでした。

また、佐伯正夫と宇野千代の継母・佐伯リュウは同じ姓ですが、二人が親族だったと確認できる資料はありません。

姓が同じというだけで、親族関係があったと判断することはできません。

佐伯正夫はどんな人?

佐伯正夫について確認できる情報は限られています。

ここでは、宇野千代の回想などからわかる範囲をみていきましょう。

師範学校を卒業した正規教員

佐伯正夫は、師範学校を卒業した訓導だったとされています。

訓導とは、当時の小学校などで働いていた正規教員の職名です。

宇野千代は高等女学校を卒業して代用教員になったため、佐伯正夫とは教員としての立場が異なりました。

佐伯正夫は教員を養成する師範学校で学び、正式な資格を持って教壇に立っていた人物です。

宇野千代の回想からは、色白でやさしそうな印象の男性だったことがうかがえます。

ただし、これは宇野千代から見た佐伯正夫の姿です。

佐伯正夫が宇野千代をどのように見ていたのか、その詳しい心境までは確認できません。

新任教師として赴任

佐伯正夫は1915年、新任教師として川下村の学校へ赴任しました。

そこには、前年から代用教員として働いていた宇野千代がいました。

当時の宇野千代は、教師として働く一方、文学活動にも取り組んでいました。

同人7人で回覧雑誌『海鳥』を作り、3号まで発行しています。

宇野千代にとってこの時期は、教師と文学活動を両立していたころでした。

そこへ新任教師として赴任してきたのが、佐伯正夫だったのです。

宇野千代と佐伯正夫の恋文事件

宇野千代と佐伯正夫の関係を語るうえで、よく知られているのが恋文をめぐる出来事です。

二人の手紙は、学校の教え子によって運ばれていたと伝えられています。

教え子が恋文を運んだ

宇野千代と佐伯正夫は、教え子に恋文を運んでもらっていたとされています。

川下小学校の後年の同窓会では、当時の教え子が「先生の恋文を運んだ郵便屋だった」という趣旨の話をしたとも伝えられています。

現在であれば、職場の同僚同士が交際すること自体は珍しくありません。

しかし、宇野千代と佐伯正夫が恋愛関係になったのは1910年代です。

学校の児童が二人の恋文を運んでいたこともあり、二人の関係は周囲に知られるようになりました。

なお、二人が交わした恋文の具体的な内容は確認できません。

そのため、手紙に何が書かれていたのかを推測で補うことはできません。

二人の恋が町の噂に

宇野千代と佐伯正夫の恋愛は、やがて田舎町の噂になったと伝えられています。

宇野千代は後年、当時を振り返り、志を立てて故郷を出たのではなく、町から逃げ出したという趣旨の言葉を残しました。

この回想からも、宇野千代が周囲の噂から離れようとしていたことがうかがえます。

一方、佐伯正夫が学校から処分を受けたのかは、今回確認した資料では明らかになっていません。

宇野千代については、同僚教師との恋愛が問題となり、教職を追われたと複数の資料に記されています。

しかし、佐伯正夫も同じ処分を受けたとは確認できないため、断定はできません。

宇野千代は教師を辞めることに

佐伯正夫との恋愛が問題になり、宇野千代は教師の仕事を続けられなくなりました。

この出来事によって、宇野千代の生活は大きく変わります。

恋愛問題で教職を追われた

1915年、宇野千代は同僚教師・佐伯正夫との恋がきっかけで、学校を辞めることになりました。

資料によって「免職」「諭旨免職」「教職を追われた」など、表現には違いがあります。

ただ、佐伯正夫との恋愛が問題になり、宇野千代が学校を離れたという点は確かのようです。

具体的にどのような処分だったのかまでは、はっきりしていません。

また、二人の関係そのものが問題だったのか、教え子に恋文を届けてもらったことが直接の理由だったのかも、明確にはわかっていません。

 

人の噂を避けて京城へ

教職を失った宇野千代は、女学校時代の恩師を頼り、当時の朝鮮にあった京城へ渡りました。

京城は、現在の韓国・ソウルです。

宇野千代が京城へ渡った背景には、佐伯正夫との恋をめぐる噂から離れたい思いがあったとされています。

京城では家庭教師をしたほか、朝鮮雑誌社の社長・釈尾春芿の家で、子守りなどをして生活しました。

宇野千代が京城へ渡った時点で、二人の恋愛が完全に終わっていたとはいえません。

宇野千代は京城で暮らしながら、佐伯正夫に手紙を書き続けていたと伝えられています。

⇒ 宇野千代は朝鮮へなぜ渡った?18歳で岩国を離れた理由

 

宇野千代と佐伯正夫の別れ

宇野千代が京城で暮らし始めてから約3か月後、佐伯正夫から一通の手紙が届きました。

それは、二人の関係を断つ意思を伝える絶縁状でした。

京城へ絶縁状が届く

宇野千代が京城へ渡ってから約3か月後、佐伯正夫から絶縁状が届きました。

絶縁状とは、今後の関係を断つ意思を伝える手紙です。

佐伯正夫が別れを決めた詳しい理由は、明らかになっていません。

学校での恋愛問題や周囲の噂が影響した可能性はあります。

確認できるのは、佐伯正夫が宇野千代との関係を断とうとしたということです。

 

帰国後も復縁できなかった

佐伯正夫から絶縁状を受け取った宇野千代は、京城を離れて帰国。

宇野千代は周囲に「母が急病になった」と伝えて帰国したとされています。

 

帰国後、宇野千代は佐伯正夫の転任先だった学校を訪ねました。

しかし、佐伯正夫は宇野千代を受け入れなかったと伝えられています。

ただし、この再会が二人にとって最後だったかどうかまでは確認できません。

その後の佐伯正夫の経歴や、宇野千代との交流についても不明です。

二人の関係を時系列で整理してみましょう。


  • 1914年 宇野千代が代用教員になる

    宇野千代は岩国高等女学校を卒業し、川下村の小学校で働き始めました。


  • 1915年 佐伯正夫と出会う

    佐伯正夫が新任教師として赴任し、宇野千代と恋愛関係になりました。


  • 1915年 宇野千代が教職を追われる

    二人の恋愛が町の噂となり、宇野千代は教師を辞めることになりました。


  • 1915年 宇野千代が京城へ渡る

    宇野千代は女学校時代の恩師を頼り、岩国を離れて京城へ向かいました。


  • 約3か月後 佐伯正夫から絶縁状が届く

    京城で暮らす宇野千代のもとに、佐伯正夫から関係を断つ手紙が届きました。


  • 1916年 宇野千代が帰国

    宇野千代は帰国後に佐伯正夫を訪ねましたが、受け入れてもらえませんでした。


佐伯正夫との恋が宇野千代に与えた影響

佐伯正夫との恋は、宇野千代の10代後半の生活を大きく変えました。

 

宇野千代が岩国を離れるきっかけに

佐伯正夫との恋愛が問題になったことで、宇野千代は教職を失いました。

さらに、周囲の噂を避けるように岩国を離れ、京城へ渡ります。

佐伯正夫との恋が、宇野千代が故郷を離れるきっかけになったことは、複数の年譜や紹介資料で確認できます。

一方、この出来事が特定の小説に直接反映されたかどうかはわかりません。

宇野千代の初期作品には、自身の生い立ちや経験をモチーフにした作品があります。

しかし、特定の作品が佐伯正夫との恋をモデルにしていると断定できる根拠は見つかっていません。

 

宇野千代が新しい人生へ進む転機

佐伯正夫との関係が途絶えたあと、宇野千代は藤村忠を頼って京都へ向かいます。

藤村忠は、宇野千代が14歳のときに結婚した藤村亮一の弟です。

宇野千代は京都で藤村忠と暮らし始め、その後、藤村忠の東京帝国大学進学に伴って上京しました。

東京では、雑誌社の事務や家庭教師、料理店の給仕など、さまざまな仕事を経験します。

やがて札幌で書いた『脂粉の顔』が懸賞小説の一等に選ばれ、小説家としての道を歩み始めました。

佐伯正夫との恋が、小説家になる直接のきっかけだったとはいえません。

それでも、教職を失い、岩国から京城へ渡り、その後京都や東京へ向かった流れをみると、宇野千代の人生が大きく動き始めた転機のひとつだったことがわかります。

 

まとめ

以上、宇野千代と佐伯正夫の関係や、教師時代の恋についてご紹介しました。

宇野千代と佐伯正夫は、川下村の小学校で働いていた同僚教師です。

1915年に佐伯正夫が新任教師として赴任し、二人は恋愛関係になりました。

教え子に恋文を運んでもらっていたことでも知られています。

二人の関係が町の噂となり、宇野千代は教職を追われました。

その後、宇野千代は岩国を離れて京城へ渡ります。

しかし、京城で佐伯正夫から絶縁状を受け取り、帰国後に訪ねても受け入れてもらえませんでした。

朝ドラ『ブラッサム』で宇野千代をモデルとする主人公の教師時代が描かれるなら、若き日の恋と故郷を離れる決断にも注目したいですね。

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