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豊臣兄弟! トピックス

黒田官兵衛の息子・長政とは?人質の危機や兜の秘密、関ヶ原の功績を解説

黒田官兵衛は、豊臣秀吉を支えた名軍師です。

その息子・黒田長政の人生も、波乱に満ちていました。

危うい人質時代。そして、関ヶ原での知られざる活躍。語るべき逸話が、数多く残っています。

この記事では、

  • 黒田官兵衛の息子・長政の生い立ちと人質時代
  • 命を救った竹中半兵衛との深い絆
  • 関ヶ原の戦いで愛用した兜の秘密
  • 東軍勝利を支えた長政の調略と功績

についてご紹介します。

黒田官兵衛の息子・長政とは何者?

黒田官兵衛の息子こそ、後の福岡藩初代藩主・黒田長政です。

まずは、生い立ちから見ていきましょう。

幼名は松寿丸

黒田長政は、永禄11年(1568年)12月3日、播磨国姫路で誕生。

父は黒田孝高、後の官兵衛如水です。

母は、志方城主・櫛橋伊定の娘。

幼名は松寿丸。長じて、吉兵衛と名乗りました。

天才軍師のDNA

天正5年(1577年)、黒田官兵衛は織田信長に臣従。これに伴い、松寿丸は人質として信長のもとへ送られます。

その後、羽柴秀吉に預けられ、近江・長浜城で少年期を過ごしました。

秀吉のすぐ近くで育った経験は、黒田長政のその後を大きく形づくります。

知略に長けた武将への素地は、すでにこの頃から芽生えていたのかもしれません。

官兵衛の息子を襲った人質危機とは?

黒田長政には、命を落としかねない危機が訪れます。

引き金は、父・官兵衛の身に起きた事件でした。

信長の処刑命令

天正6年(1578年)、摂津有岡城主・荒木村重が、織田信長に反旗を翻しました。

黒田官兵衛は、村重の説得に単身で向かいます。しかし、捕らえられ、土牢に幽閉。

一年近く戻らない官兵衛を、織田信長は「寝返った」と判断します。

そして命じたのが、人質・松寿丸(黒田長政)の処刑でした。

竹中半兵衛の機転

困り果てた羽柴秀吉のもとへ、動いたのが竹中半兵衛。

官兵衛が裏切るはずはない。半兵衛は、そう確信していました。

そこで、ひそかに松寿丸を自身の領地・美濃へ移します。別の首を信長に差し出した、ともいわれています。

『黒田家譜』にも、半兵衛が松寿丸を美濃国不破郡岩手へ送り、手厚くもてなした記録が残ります。

実際には、家臣・不破矢足の屋敷に匿われていたとも伝わります。

命を救われた背景

半兵衛が命を懸けた背景には、官兵衛との深い信頼関係がありました。

二人は共に秀吉を支える軍師。後世「両兵衛」と並び称される間柄です。

天正7年(1579年)、有岡城は落城。官兵衛は救出され、嫌疑も晴れました。

一年近い幽閉生活は過酷で、膝の関節に障害が残り、頭髪も抜けてしまったと伝わります。

一方の半兵衛は、同じ年の三木城攻めの陣中で病に倒れ、世を去りました。

黒田家はこの恩を忘れず、半兵衛の孫を家臣として迎え入れています。

⇒黒田官兵衛の幽閉期間は何年?有岡城の土牢に囚われた理由と場所を解説

黒田官兵衛の息子の兜には何が?

命の恩人・竹中半兵衛との縁は、長政が愛用した兜にも続いています。

その物語を見ていきましょう。

一の谷形兜の由来

黒田長政が関ヶ原で着けた兜は「銀箔押一の谷形兜」。

源義経の「鵯越の逆落とし」で知られる、一の谷の断崖です。

その険しい地形を表現した、ひときわ目を引くデザイン。

もともとの考案者は、竹中半兵衛といわれています。

半兵衛が三木城攻めの陣中で没した際、形見として福島正則に譲られました。

当時19歳、初陣の働きを称えたものだったそうです。

福島正則との交換

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の最中、黒田長政と福島正則は不仲になります。

きっかけは些細なことでした。一説には、家臣・母里太兵衛が福島正則の名槍を取り上げ、長政が返還を拒んだことが原因ともいわれます。

ただ、これは推測の域を出ません。帰国後、二人は旧交を重んじて和解。

証として交換したのが、福島正則の「一の谷形兜」と、黒田長政の「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」。

福岡市博物館の解説によれば、実際には写(複製)を交換したとも伝わります。

戦場に映える意匠

黒田長政は、関ヶ原でこの一の谷形兜をかぶり出陣しました。

竹中半兵衛への思いを胸に、戦場に臨んだと考えられます。

現在、兜は黒糸威胴丸具足とともに国の重要文化財。福岡市博物館に所蔵されています。

なお、近年の修復調査では、銀箔の下に金箔の跡が発見。当初は金色に輝いていた可能性も指摘されています。

官兵衛の息子の関ヶ原での功績は?

黒田長政は、関ヶ原の戦いでも大きな役割を果たしました。その功績を見ていきましょう。

東軍勝利の立役者

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こります。

黒田長政は徳川家康の東軍につき、約5,000の兵を率いて参戦しました。

同年7月、決戦に先立ち、下野・小山で軍議が開かれます(小山評定)。

福島正則の動向を案じた家康は、長政をこの場に呼び寄せました。長政は、福島正則が石田三成と不仲であることを伝え、家康を安心させます。

さらに、毛利家の重臣・吉川広家とも書状を重ね、毛利勢を動かさない約束を取りつけました。

長政自身が元和9年(1623年)に残した遺言。

関ヶ原での最大の功績は、戦場での奮戦よりも、毛利家と小早川家を東軍に引き入れた知謀にある、と記されています。

小早川秀秋の寝返り

東軍勝利の決定打、それが小早川秀秋の寝返りです。

黒田長政は、小早川家の重臣・平岡頼勝と縁戚関係。

たびたび使者を送り、東軍への合流を働きかけました。

一説には、秀秋にとって母のような存在だった北政所(高台院)が東軍側にいることを説いた、とも伝わります。

寝返りのタイミングには、二つの説があります。

合戦が半ばに進んだ頃という従来の説。

開戦と同時だったという説です。

後者は、近年の一次史料研究に基づくもので、定説が見直されつつある段階です。

いずれにしても、小早川秀秋の寝返りで、西軍は総崩れとなりました。

福岡藩初代藩主へ

関ヶ原の戦いの後、黒田長政の功績は徳川家康から高く評価されました。

与えられたのは、筑前一国、52万3000石という大きな所領です。

戦後しばらくは名島城が拠点でした。

やがて長政は、那珂郡警固村福崎の地を選び、新たな城下町づくりに着手します。

城下町の名は、黒田家の祖先ゆかりの地・備前国(現在の岡山県)の地名から命名。

これが「福岡」の始まりであり、現在の福岡市の礎となりました。

黒田長政は、福岡藩の初代藩主として、新たな歴史を歩み始めます。

 

まとめ

黒田長政についてご紹介しました。

父・官兵衛の陰に隠れがちな黒田長政が、実は戦国史を動かす重要な役割を担っていたこと。

人質としての少年期、竹中半兵衛との絆、そして関ヶ原での調略。それぞれの逸話を知ることで、黒田長政という武将の輪郭が、ぐっと立体的になったのではないでしょうか。

2026年放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。

菅田将暉さん演じる竹中半兵衛と、倉悠貴さん演じる黒田官兵衛(小寺官兵衛)の掛け合いが見どころでしたね。

半兵衛が松寿丸の命を救った逸話を知っておくと、ドラマで二人が交わすやり取りの重みも、違って見えてくるはずです。

黒田長政自身は、表舞台に立つ機会が少ない人物。ですが、その背景を知ることで、戦国時代の人間関係を、より深く楽しめるようになります。

黒田家の歩みに、ぜひ注目してみてください。

 

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