朝ドラ『ブラッサム』で、珠の父として登場する葉野清治。
自由奔放に生きてきた清治ですが、第2週では病気が見つかり、やがて家族との別れを迎えます。
この記事では、
- ブラッサム清治の死因と病気
- 清治が亡くなるまでの経緯
- 宇野千代の父・宇野俊次の死因
- 宇野俊次の最期と、父を失った宇野千代の思い
ブラッサム清治の死因は心臓の病気

『ブラッサム』第2週で、清治は胸を押さえて苦しむようになります。医師の診察で分かったのは、心臓の病気でした。
その後、病状は少しずつ悪化。清治は家族との別れを迎えます。
清治の病気が見つかる
清治に異変が現れるのは第2週です。
本家から金銭的な援助を断られ、料理屋で暴れて警察に捕まるなど、清治の生活は荒れていました。
そんななか、胸を押さえて苦しむ清治。医師から「心臓の病気」と診断されます。
それでも、清治の暮らしがすぐに変わったわけではありません。家族を振り回しながら、自分の好きなように生きる。そんな清治らしい日々が続きます。
しかし年の瀬が近づくころ、病状は悪化しました。
「死にとうない」
死を前にした清治がこぼした言葉です。これまで強く振る舞ってきた清治が見せた、死への恐れでした。
清治の最期
その後、清治は帰らぬ人となります。
葬儀を終えた珠とリョウは、清治の部屋へ入りました。父はいったい何を考え、どんな思いで生きていたのか。珠にも簡単には答えが出ません。
そして珠は、もうひとつの感情に気づきます。
父を失って悲しい。それなのに、どこか心が軽くなっている。
清治は珠にとって、好きか嫌いかだけでは割り切れない父でした。厳しく、自分勝手で、珠を縛る存在。それでも、梅の蕾を見つけて喜ぶ父の姿も、珠の記憶には残っています。
父との別れを経て、珠の中で強くなったのが「書きたい」という思いでした。
年が明けると、珠は再び物語を書き始めます。
「何でもいいから、書きたい」
清治の死は、珠が自分の人生へ踏み出す転機にもなりました。
宇野千代の父・宇野俊次の死因は?
葉野清治と重なる人物が、宇野千代の父・宇野俊次です。
宇野俊次も、宇野千代が女学生だった1913年に病気で亡くなっています。
宇野俊次の病名は不明
NPO宇野千代生家の年譜には、1913(大正2)年に父・俊次が「病没」したと記録されています。
ただし、具体的な病名までは記されていません。
宇野千代の実母・トモについては肺結核で亡くなったことが記録されていますが、俊次については「病没」とあるだけです。
そのため、宇野俊次の死因を肺結核などと断定することはできません。
病気で衰弱した宇野俊次
晩年の俊次は、病気によって体が弱っていきました。
宇野千代は『生きて行く私』で、父との関係についても詳しく振り返っています。
俊次は子どもたちに厳しい父でした。宇野千代自身も、父について「スパルタ式の教育」をしていたと語っています。
父と娘の会話も、
「対話は父の命令と私の答えだけ」
というものでした。
雪の日にも草履を履かせず、裸足で学校へ行かせる。友達と自由に遊ぶことも許さない。
一方、俊次自身は競馬や博打などの道楽を好んでいました。宇野千代にとって、俊次は幼いころから逆らうことのできない父だったのです。
宇野俊次の最期
病気が進んでいた俊次は、1913年に亡くなります。
その最期と父を失ったときの思いを、宇野千代は後年、率直な言葉で振り返っています。
出刃包丁を手にした父
『生きて行く私』には、晩年の俊次について印象的な場面が書かれています。
病気で弱っていた俊次は、あるとき出刃包丁を手にして外へ出ました。
長く家族の前で強い父であり続けた俊次。しかし病気によって体は衰え、死が迫っていました。
そして1913年、俊次は病没します。
父の死後の宇野千代
父が亡くなったとき、宇野千代は激しく泣きました。
『生きて行く私』では、そのときの思いを率直に書き残しています。
「私は涙を滝のように流した」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
ところが、そのあとには意外な言葉が続きます。
「やはり何となく嬉しかった」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
父を失った悲しみと、自由になったような感覚。宇野千代の中には、正反対にも見える感情がありました。
俊次は、幼いころから宇野千代に厳しく接してきた父です。父の命令には逆らえず、読みたい新聞や雑誌さえ自由には読めませんでした。
父が亡くなったことで、その生活も終わります。
宇野千代はさらに、
「私はもうどんなことでも出来る」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
と書いています。
父の死が悲しくなかったわけではありません。涙を流すほど悲しい。それでも、自分を縛っていたものから解放された感覚もあったのでしょう。
俊次の死後、宇野千代は文学に興味を持つようになります。
NPO宇野千代生家の年譜には、父が亡くなった1913年から、「女子文壇」などの雑誌へ投稿し、文学サークルを始めたことが記されています。
父の死によって、突然作家になったわけではありません。
それでも俊次の死を境に、好きなものを読み、自分の言葉を書く時間が広がっていきました。
「私はもうどんなことでも出来る」。
その言葉どおり、宇野千代はこのあと女学校を卒業し、代用教員となり、やがて故郷・岩国を飛び出していきます。
まとめ|清治の死因と宇野俊次の最期
以上、ブラッサム清治の死因と、宇野千代の父・宇野俊次の最期についてご紹介しました。
清治は心臓の病気で亡くなります。一方、宇野俊次も1913年に病没しましたが、具体的な病名は分かっていません。
父の死後、宇野千代は少しずつ文学の世界へ歩み始めました。
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