宇野千代の最後の夫となったのが、作家の北原武夫です。
二人は1939年に結婚。仕事でも支え合いながら長い年月を過ごしました。しかし1964年、25年続いた結婚生活に終止符を打ちます。
この記事では、
- 宇野千代と北原武夫の離婚理由
- 二人の結婚と仕事
- スタイル社の倒産と借金返済
- 宇野千代が振り返った北原武夫との別れ
宇野千代と北原武夫の離婚理由

宇野千代と北原武夫が離婚したのは、1964年9月です。離婚を切り出したのは北原武夫でした。
そのころ二人の関係は、すでに長く疎遠になっていました。さらに北原武夫には、女優・久下慧子との関係も続いていました。
夫婦はすでに疎遠だった
宇野千代と北原武夫は1939年に正式に結婚しました。一緒に暮らし始めたのは1937年ごろで、離婚まで約27年間にわたる関係でした。
しかし、その後半には長く疎遠だった時期がありました。
宇野千代は『弱者のように』で、北原武夫から離婚届を差し出された日のことを振り返っています。
「これに署名してくれないか」
(引用:『弱者のように』宇野千代)
そう言われた宇野千代は、
「ええ、好いわ」
(引用:『弱者のように』宇野千代)
と答えました。
長く続いた結婚生活の終わりでしたが、やり取りは意外なほど静かなものでした。
二人の距離は、離婚までの長い時間の中ですでに広がっていたことが伝わってきます。
北原武夫と久下慧子の関係
北原武夫には、女優・久下慧子との長い関係もありました。
二人が出会ったのは1951年。久下慧子は当時、俳優座養成所に所属していました。
その後も関係は続き、1964年に宇野千代と離婚した北原武夫は、翌1965年に久下慧子と結婚しています。
宇野千代と北原武夫は、このころすでに長く疎遠になっていました。
25年の結婚生活の終盤には、夫婦それぞれの生活が大きく離れていたことがわかります。
宇野千代と北原武夫の結婚
宇野千代と北原武夫が正式に結婚したのは、1939年4月1日です。
宇野千代は42歳、北原武夫は32歳でした。
1939年に結婚
北原武夫は1936年、新聞記者として宇野千代を取材しました。当時の宇野千代は、ファッション雑誌『スタイル』を創刊したばかりでした。
北原武夫はやがて『スタイル』の編集にも参加し、二人は急速に距離を縮めます。1937年ごろから一緒に暮らし、1939年に結婚しました。
媒酌人を務めたのは、画家の藤田嗣治と作家の吉屋信子。披露宴は帝国ホテルで開かれています。
結婚式が4月1日だったため、招待状を見て「エイプリル・フールでは?」と思った人もいたそうです。
仕事もともにした夫婦
宇野千代と北原武夫は、家庭だけでなく仕事でもつながっていました。
宇野千代は1936年にスタイル社を設立し、ファッション雑誌『スタイル』を創刊。北原武夫も編集に加わりました。
戦後には『スタイル』を復刊。宇野千代が経営者として事業を広げる一方、北原武夫も作家として活動を続けます。
二人の結婚生活は、文学と出版の仕事をともにした年月でもありました。
スタイル社の倒産と借金
順調だったスタイル社ですが、やがて経営が悪化します。
1957年には会社更生法の適用を受け、1959年に倒産。残ったのは、多額の借金でした。
夫婦で借金を返済
スタイル社の負債は、8千数百万円にのぼったとされています。
宇野千代は土地や別荘、家などを手放しました。その後は妹の家の2階で着物を作り、北原武夫は離れで小説を書く生活へ。
宇野千代は着物の仕事、北原武夫は執筆で収入を得ながら、借金を返していきました。
華やかな『スタイル』を作った二人は、今度は倒産後の負債をともに背負うことになったのです。
完済した年に離婚
借金の返済が終わったのは1964年です。
そして同じ年の9月、宇野千代と北原武夫は離婚しました。
1939年の結婚から25年。仕事をともにし、スタイル社の倒産後には借金返済も続けてきた二人でした。
借金を返し終えた1964年、長く続いた夫婦生活にも区切りがつきます。
会社経営、倒産、返済。さまざまな出来事をともに経験した末の別れでした。
北原武夫との別れ
北原武夫との別れについて、宇野千代は後年の文章に残しています。
離婚届に署名した翌日、北原武夫は荷物をまとめて家を出ました。その後ろ姿を見送ったあと、宇野千代は一人で少し泣いたといいます。
しかし、その涙について『続幸福を知る才能』で、
「ながい間、一緒にいたなア」
(引用:『続幸福を知る才能』宇野千代)
という感慨だったと振り返っています。
長い年月をともに過ごした人が家を出ていく。その瞬間に、二人で過ごした時間がよみがえったのでしょう。
宇野千代にとって、北原武夫との関係はこれまでの結婚や同棲生活と比べても長いものでした。正式な結婚だけでも25年です。
だからこそ「ながい間、一緒にいたなア」という短い言葉には、二人が過ごした年月の重さが感じられます。
宇野千代はその後、北原武夫との関係を作品にも残しました。
代表的なのが『刺す』です。
『刺す』は1963年から1966年にかけて発表され、事業と愛の破綻を描いた作品とされています。
さらに『私の文学的回想記』『雨の音』、『生きて行く私』にも、北原武夫との日々が描かれました。
結婚生活は終わっても、北原武夫と過ごした年月は宇野千代の文学に残り続けたのです。
まとめ|宇野千代と北原武夫の離婚
以上、宇野千代と北原武夫の離婚についてご紹介しました。
二人は1939年に結婚し、家庭だけでなく仕事でも長い時間をともにしました。
後年には夫婦の距離が広がり、北原武夫には久下慧子との関係も続いていました。
スタイル社が倒産したあとは、多額の借金をともに返済。そして1964年、返済を終えた年に北原武夫から離婚を申し出ます。
北原武夫が家を出たあと、宇野千代が振り返った言葉は、
「ながい間、一緒にいたなア」
でした。
25年間をともにした相手との別れを振り返る、静かな言葉です。
北原武夫との生活は終わりましたが、その年月は『刺す』や『生きて行く私』など、宇野千代の作品にも残されました。
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