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宇野千代はなぜ朝鮮へ渡った?10代で岩国を離れた理由|朝ドラ「ブラッサム」深掘り

作家・宇野千代は10代のころ、故郷の岩国を離れ、単身で朝鮮の京城へ渡りました。

まだ若かった宇野千代は、なぜ遠く離れた朝鮮へ向かったのでしょうか。

この記事では、

  • 宇野千代が朝鮮へ渡った理由
  • 岩国での教師生活と佐伯正夫との恋
  • 朝鮮の京城で送った生活
  • 宇野千代が岩国へ戻った理由
についてご紹介します。

宇野千代は朝鮮へなぜ渡った?

宇野千代が朝鮮へ渡った背景には、勤務先の同僚教師との恋がありました。

恋愛をめぐる噂が岩国で広まり、教師の仕事を辞めることになったのです。

同僚教師との恋で退職

宇野千代は1914年(大正3年)、岩国高等女学校を卒業すると、川下村尋常小学校で働き始めました。

正規の教員ではなく、準訓導と呼ばれる代用教員です。

宇野千代はこの学校で、新しく赴任してきた教師・佐伯正夫と出会いました。

やがて宇野千代は、佐伯正夫に恋をします。

授業中の児童に頼み、佐伯正夫への手紙を届けさせたこともあったそうです。

しかし、2人の恋は町中の噂になりました。

やがて宇野千代は校長室へ呼ばれ、学期の終わりで学校を辞めるよう告げられます。

NPO宇野千代生家の資料では、「諭旨免職になった」と紹介されています。

こうして宇野千代は、教師の仕事を失いました。

 

人の噂を避けて岩国を離れた

学校を辞めた宇野千代は、故郷の岩国を離れました。

朝鮮へ渡った直接の理由は、町に広まった噂を避けるためです。

宇野千代が暮らしていた川下村では、若い女性教師の恋愛が大きな話題になりました。

学校を辞めたあとも、周囲の目を気にせず暮らすのは難しかったのでしょう。

 

そこで宇野千代は、朝鮮の京城へ向かいました。

京城には、岩国高等女学校時代の女性教師がいました。

宇野千代は、その恩師を頼って海を渡ったのです。

宇野千代はのちに、この朝鮮行きを「若き日の放浪」の始まりと振り返っています。

ただし、最初から小説家になるために朝鮮へ渡ったわけではありません。

朝鮮行きのきっかけは、同僚教師との恋で学校を辞め、岩国での噂から離れようとしたことでした。

 

宇野千代が岩国で教師になるまで

朝鮮へ渡る直前まで、宇野千代は岩国で教師として働いていました。

学校を卒業してから岩国を離れるまでの流れを見ていきましょう。

岩国高等女学校を卒業

宇野千代は1897年(明治30年)11月28日、山口県玖珂郡横山村に生まれました。

現在の山口県岩国市川西にあたります。

1910年(明治43年)、岩国尋常小学校を卒業し、岩国高等女学校へ進学しました。

現在の山口県立岩国高等学校です。

宇野千代は小学校時代から成績がよく、女学校でも高い成績を収めていました。

作文にも、のちの作家活動につながる文章の才能が表れていたといいます。

1914年(大正3年)3月、宇野千代は岩国高等女学校の本科を卒業しました。

当時の宇野千代は16歳で、同じ年の11月に17歳を迎えています。

川下村小学校の代用教員になる

女学校を卒業した宇野千代は、川下村尋常小学校に採用されました。

肩書は準訓導で、現在でいう代用教員です。

月給は8円でした。

教師として働く一方で、宇野千代は文学にも関心を持っていました。

仲間と回覧雑誌『海鳥』を作り、小説や詩、短歌などを載せています。

まだ作家として活動を始める前ですが、文章を書くことはすでに宇野千代の暮らしの中にありました。

ただし、この時点で小説家になることを明確な目標にしていたかどうかはわかっていません。

 

同僚教師・佐伯正夫との恋

宇野千代が教師になった翌年、川下村尋常小学校に新しい男性教師が赴任してきました。

その人物が佐伯正夫です。

宇野千代は佐伯正夫に恋をしました。

児童に恋文を届けさせるほど、思いを隠さなかったといいます。

しかし、2人の恋愛は町中の噂になりました。

当時は、女性教師の恋愛に対する世間の目が、現在よりも厳しい時代です。

やがて宇野千代は、学校を辞めることになりました。

同僚教師との恋、教職からの退職、朝鮮行きは、ひと続きの出来事だったのです。

 

宇野千代が向かった朝鮮・京城とは?

宇野千代が向かったのは、朝鮮の京城です。

現在の韓国・ソウルにあたります。

京城は現在のソウル

宇野千代が京城へ渡ったのは、1915年(大正4年)の秋でした。

当時の朝鮮は日本の統治下にあり、現在のソウルは京城と呼ばれていました。

宇野千代は1897年11月28日生まれです。

そのため、1915年秋の渡航時点では満17歳だったと考えられます。

一方、NPO宇野千代生家の年譜では、1915年の宇野千代を「18歳」と表しています。

これは、その年に迎える年齢を示した表記です。

現在の満年齢に合わせるなら、宇野千代は17歳のときに朝鮮へ渡ったことになります。

 

女学校時代の恩師を頼った

宇野千代が京城を選んだのは、女学校時代の女性教師が暮らしていたためです。

その教師は、当時、京城で教壇に立っていました。

宇野千代は女学校時代の恩師を頼り、一人で朝鮮へ向かいます。

家族も知人もいない土地へ、まったく当てのないまま渡ったわけではありません。

それでも、10代の女性が故郷の山口県から朝鮮へ渡るのは、大きな決断だったでしょう。

 

宇野千代の京城での暮らし

岩国を離れた宇野千代は、京城で働きながら生活しました。

滞在期間は長くありませんでしたが、いくつかの仕事を経験しています。

 

家庭教師や子守で生活

京城での宇野千代は、家庭教師や子守をしながら暮らしていました。

資料によると、朝鮮雑誌社の社長だった釈尾春芿の家で、子守をしていたとされています。

宇野千代には、小学校で教えた経験がありました。

その経験を生かし、京城でも家庭教師として働いたとみられます。

ただし、どの家庭で何を教えていたのか、収入がいくらだったのかといった詳しい記録は確認できませんでした。

京城での暮らしには不明な点もあります。

それでも、宇野千代が自分で働きながら生活していたことは、資料から確認できます。

 

朝鮮雑誌社とのつながり

宇野千代は京城で、朝鮮雑誌社とつながりを持ちました。

朝鮮雑誌社は、『朝鮮及満洲』という雑誌を発行していた会社。

宇野千代は朝鮮から帰国したあとも、この雑誌の購読予約を集める仕事をしていたと紹介されています。

契約を取り、購読料を集金する仕事でした。

ただし、朝鮮雑誌社との出会いが、宇野千代の作家活動に直接つながったことを示す資料はありません。

宇野千代が小説家として注目されるのは、1921年(大正10年)に『脂粉の顔』が懸賞小説で一等に選ばれてからです。

⇒ 宇野千代の『脂粉の顔』とは?懸賞当選が小説家への転機に

宇野千代が朝鮮から帰国した理由

岩国の噂から離れるため、朝鮮へ渡った宇野千代。

しかし、京城での生活は長く続きませんでした。

佐伯正夫から届いた別れの手紙

宇野千代が京城へ渡ってから約3か月後、佐伯正夫から手紙が届きました。

その内容は、宇野千代との関係を終わらせる「絶縁状」でした。

この手紙が、宇野千代が朝鮮から帰国するきっかけになります。

ただし、佐伯正夫がなぜ絶縁を決めたのか、詳しい理由はわかっていません。

周囲の反対などを理由として挙げる記事もあります。

 

約3か月で岩国へ戻る

宇野千代は1916年(大正5年)、京城から日本へ戻りました。

資料によると、勤め先には「母が急病になった」と伝えて帰国したとされています。

実際には、佐伯正夫から届いた絶縁状を受け、本人に会うために帰国したとみられます。

朝鮮で暮らした期間は約3か月でした。

宇野千代は岩国に着くと、佐伯正夫が赴任していた山間部の学校へ向かいました。

 

初恋は失恋に終わった

宇野千代は佐伯正夫のもとを訪ねましたが、温かく迎えられることはありませんでした。

佐伯正夫の態度は冷たく、2人の関係が元に戻ることはありませんでした。

こうして、宇野千代の初恋は失恋に終わります。

宇野千代は恋によって教師の仕事を失い、人の噂を避けるために朝鮮へ渡りました。

それでも最後には、佐伯正夫から別れを告げられています。

その後、2人の関係が復活したことを示す資料は確認できません。

失恋を経験した宇野千代は岩国に長くとどまらず、再び故郷を離れていきました。

 

朝鮮行きから始まった宇野千代の放浪

宇野千代は自作年譜の中で、朝鮮の京城へ渡ったことを「若き日の放浪」の始まりとしています。

朝鮮から戻ったあとも、さまざまな土地で暮らしました。

 

岩国から京都へ

京城から帰国した宇野千代は、しばらく岩国で過ごしました。

その後、従兄弟の藤村忠を頼って京都へ向かいます。

藤村忠は、宇野千代が14歳のときに結婚した藤村亮一の弟でした。

宇野千代と藤村亮一の結婚生活は、わずか10日ほどで終わっています。

 

京都へ移った宇野千代は、藤村忠との生活を始めました。

その後、藤村忠の進学に合わせて東京へ移ります。

朝鮮から帰ったことで、宇野千代の放浪が終わったわけではありません。

岩国から京都、そして東京へと生活の場所を変えていったのです。

 

東京と札幌で小説家への道を歩む

東京での宇野千代は、日本語教師や事務員、料理店の給仕など、さまざまな仕事を経験しました。

藤村忠と結婚したあと、1920年(大正9年)には、藤村忠の勤務先に合わせて札幌へ移ります。

札幌では文芸同人誌に参加し、執筆を続けました。

 

そして1921年(大正10年)、『時事新報』の懸賞小説に応募した『脂粉の顔』が一等に選ばれます。

これが、宇野千代が小説家として歩き始めるきっかけになりました。

朝鮮行きが直接、小説家デビューにつながったわけではありません。

しかし、朝鮮への渡航は、宇野千代が故郷の外へ踏み出した最初の出来事でした。

 

まとめ|宇野千代が朝鮮へ渡った理由

以上、宇野千代が朝鮮へ渡った理由についてご紹介しました。

宇野千代の朝鮮行きを簡単にまとめます。

  • 川下村尋常小学校で代用教員をしていた
  • 同僚教師・佐伯正夫との恋が噂になった
  • 恋愛を理由に学校を辞めることになった
  • 人の噂を避けるため、岩国から朝鮮の京城へ渡った
  • 京城では女学校時代の恩師を頼った
  • 家庭教師や子守をしながら暮らした
  • 佐伯正夫から絶縁状を受け取り、約3か月で帰国した

宇野千代が朝鮮へ渡った直接の理由は、作家を目指すためではありません。

同僚教師との恋が問題となり、岩国で広まった噂から離れるためでした。

朝鮮での生活は短いものでしたが、この渡航をきっかけに、宇野千代は故郷の外へ次々と活動の場を広げていきます。

朝ドラ『ブラッサム』では、葉野珠が故郷を離れるまでの出来事や、海を渡る決断がどのように描かれるのかにも注目したいですね。

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