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朝ドラ ブラッサム トピックス

ブラッサム黒崎大三郎の実在モデルは?中央公論編集長の瀧田樗陰と史実を解説

朝ドラ『ブラッサム』に登場する黒崎大三郎(遠藤憲一さん)は、文芸雑誌『首都公論』を率いる豪快な編集長です。

その実在モデルとして有力なのが、『中央公論』の名編集者・瀧田樗陰(たきた・ちょいん)です。

この記事では、

  • 黒崎大三郎の実在モデル・瀧田樗陰の人物像
  • 山中勇三と嶋中雄作の共通点
  • 珠と黒崎の出会いと史実の違い
  • 黒崎大三郎役・遠藤憲一さんのプロフィール

についてご紹介します。

 

ブラッサム黒崎大三郎の実在モデルは瀧田樗陰が有力

ブラッサム黒崎大三郎の実在モデルは瀧田樗陰

黒崎大三郎の実在モデルとして有力なのは、『中央公論』主幹の瀧田樗陰です。

瀧田樗陰は、明治末期から大正時代に活躍した名編集者。多くの作家を支え、『中央公論』を日本有数の総合雑誌に育てた人物です。

まずは、朝ドラと史実の共通点を見ていきましょう。

 

『首都公論』のモデルは『中央公論』

朝ドラの『首都公論』は、実在した雑誌『中央公論』がモデルと考えられます。

『中央公論』は、文学から政治、社会問題まで幅広く扱った総合雑誌です。明治末期から大正時代にかけて、多くの作家や知識人に支持されました。

朝ドラと史実を比較すると、次のような共通点があります。

ブラッサム 史実
文芸雑誌『首都公論』 総合雑誌『中央公論』
編集長・黒崎大三郎 主幹・瀧田樗陰
副編集長・山中勇三 編集者・嶋中雄作がモデル候補
西洋料理店『悠樂軒』 西洋料理店『燕楽軒』
主人公・葉野珠 作家・宇野千代

雑誌名だけでなく、編集者の顔ぶれや主人公との出会い方まで似ています。

なかでも注目したいのが、黒崎と瀧田の豪快な人物像です。

 

瀧田樗陰は大正デモクラシーを支えた名編集者

瀧田樗陰は1882年、秋田県に生まれました。

若い頃から雑誌編集に携わり、1912年には『中央公論』の主幹に就任。文学界や論壇で大きな影響力を持つようになります。

その功績は、実に多彩です。

  • 夏目漱石や谷崎潤一郎らの作品を掲載
  • 芥川龍之介など若い作家たちを支援
  • 吉野作造らの論説を掲載し、大正デモクラシーを支える

瀧田は人力車で作家の家を訪ね、原稿を集めて回っていました。作品を見る目は厳しく、原稿の催促にも熱心だったそうです。

芥川龍之介も、瀧田とのやり取りを『滝田哲太郎君』に書き残しています。

「ちょっと皮肉なものですな」

(引用:芥川龍之介『滝田哲太郎君』)

これは、芥川の小説『手巾(ハンケチ)』を読んだ瀧田の言葉です。

一方で、芥川が原稿を書けずに悩んでいたときには、谷崎潤一郎の原稿を見せて励ますこともありました。

厳しい批評眼と、作家を育てる情熱。

そんな瀧田の姿は、朝ドラの黒崎大三郎にも重なります。

山中勇三の実在モデルは嶋中雄作?編集部の共通点

黒崎大三郎のモデルを考えるうえで、もう一人注目したい人物がいます。

井浦新さんが演じる『首都公論』副編集長・山中勇三です。

山中は、豪快な黒崎を冷静に支える敏腕編集者。その実在モデルとして考えられるのが、中央公論社の嶋中雄作(しまなか・ゆうさく)です。

嶋中雄作は1887年、奈良県に生まれました。

1912年に中央公論社へ入社し、瀧田樗陰のもとで編集に携わります。その後は『婦人公論』の創刊を担い、中央公論社を支える存在になりました。

主な経歴を見てみましょう。

年 嶋中雄作の経歴
1912年 中央公論社に入社
1916年 『婦人公論』初代主幹に就任
1927年 『中央公論』の主幹も兼任
1928年 中央公論社の社長に就任

実際の嶋中は『婦人公論』の主幹を務めており、朝ドラの山中とは役職が異なります。

それでも、瀧田を支え、雑誌づくりに尽力した点は共通しています。

黒崎と山中の関係には、瀧田樗陰と嶋中雄作の姿が重ねられているのかもしれません。

宇野千代と瀧田樗陰の接点!朝ドラと史実の違い

黒崎大三郎と葉野珠の出会いにも、宇野千代と瀧田樗陰のエピソードが取り入れられています。

ただし、小説を読んでもらうまでの経緯には違いがありました。

 

朝ドラでは珠が黒崎に原稿を持ち込み酷評される

ブラッサム第23話で、珠は『首都公論』の編集長・黒崎大三郎に、自分の書いた小説を手渡します。

黒崎は『悠樂軒』の常連客。豪快にビフテキを食べ、帰り際には大金のチップを置いていく人物。

 

珠は黒崎が文芸雑誌の編集長だと知り、思い切って原稿を直接手渡しました。

ところが、第24話で黒崎から返ってくるのは、厳しい評価。

期待していた言葉は得られず、珠は大きなショックを受けます。

それでも、作家になりたいという思いは消えません。

黒崎からの酷評は、珠が小説と向き合う大きな転機となります。

 

宇野千代と瀧田樗陰の接点

実際の宇野千代も1917年、東京・本郷三丁目の西洋料理店『燕楽軒』で働いていました。

働いた期間は、わずか18日間。しかし、この短いアルバイト生活が、宇野千代の文学人生につながっていきます。

『燕楽軒』の向かいには中央公論社があり、編集長の瀧田樗陰がよく食事に訪れていました。

瀧田は食事を終えると、50銭銀貨をチップとして置いていったそうです。

 

また、店には芥川龍之介や久米正雄、菊池寛、佐藤春夫、今東光なども出入りしていました。

文学好きだった宇野千代にとって、憧れの作家たちを間近に見る日々は刺激的だったのでしょう。

後年、宇野千代は『宇野千代 ちょっと自伝』で、当時をこう振り返っています。

「文学少女だったからねぇ、憧れて、憧れて」

(引用:『宇野千代 ちょっと自伝』 )

とくに宇野千代は、当時人気作家だった芥川龍之介に憧れていたそうです。

ただし、朝ドラの珠とは違い、燕楽軒で瀧田に原稿を直接渡したわけではありません。

宇野千代が『墓を発く』を瀧田に送るのは、約5年後のことでした。

⇒ ブラッサム|悠樂軒の実在モデルは「燕楽軒」現在のどこ?宇野千代が働いた場所

 

『墓を発く』を瀧田樗陰に送ったのは1922年

1917年の出会いから約5年後、宇野千代は瀧田樗陰に小説『墓を発く』の原稿を送ります。

その間に、宇野千代の生活は大きく変わっていました。


  • 1917年 燕楽軒で働く


    東京・本郷の燕楽軒で働き、瀧田樗陰や作家たちと出会います。

  • 1919年 藤村忠と結婚


    従兄の藤村忠と結婚。翌年、夫の仕事の都合で札幌へ移ります。

  • 1921年 『脂粉の顔』が一等入選


    『時事新報』の懸賞小説で一等に入選し、賞金200円を手にします。

  • 1922年 『墓を発く』が掲載


    『中央公論』5月号に『墓を発く』が掲載され、原稿料366円を受け取ります。

1921年、宇野千代は夫の藤村忠と札幌で暮らしていました。

家事や裁縫の仕事をしながら小説『脂粉の顔』を書き、『時事新報』の懸賞に応募します。

すると、見事一等に入選。賞金200円を手にしました。

これをきっかけに、さらに小説を書くようになります。

 

次に取り組んだ大作が『墓を発く』です。

宇野千代は、燕楽軒で顔なじみだった瀧田樗陰に原稿を送ります。

しかし、掲載の知らせは届きません。

そこで1922年4月、宇野千代は直接返事を聞くため、東京の中央公論社を訪ねました。

瀧田との再会を描いた『女の日記』には、こんな言葉が残されています。

「出ていますよ」

(引用:宇野千代『女の日記』)

瀧田は、印刷されたばかりの『中央公論』を机の上に差し出しました。

なんと『墓を発く』は、すでに1922年5月号への掲載が決まっていたのです。

宇野千代が受け取った原稿料は366円。当時としては大金でした。

嬉しさのあまり、宇野千代は瀧田への礼も忘れて中央公論社を飛び出したといいます。

 

そして、その日のうちに故郷の岩国へ向かいました。

なお、現存する『墓を発く』の原稿には、瀧田によるとみられる書き込みも残っています。掲載までには、原稿のやり取りが何度かあった可能性も考えられています。

かつて燕楽軒でチップを置いていった客が、今度は宇野千代の小説を世に送り出したのです。

朝ドラと史実を整理すると、次のようになります。

  • 朝ドラ:珠が黒崎に直接原稿を渡し、厳しい評価を受ける
  • 史実:宇野千代が約5年後に瀧田へ『墓を発く』を送り、『中央公論』に掲載される

朝ドラでは、史実で時間を隔てて起きた出来事を、珠の成長物語として再構成していると考えられます。

黒崎大三郎役を演じるのは遠藤憲一さん

黒崎大三郎を演じるのは、俳優の遠藤憲一さん。

遠藤憲一さんは1961年6月28日生まれ、東京都出身。1983年のドラマ『壬生の恋歌』で本格的にテレビドラマへ進出し、悪役からコミカルな人物まで幅広く演じてきました。

朝ドラへの出演は『ロマンス』『てっぱん』『わろてんか』に続き、『ブラッサム』が4作目です。

遠藤憲一さんは、黒崎大三郎について次のように語っています。

「黒崎はよく食い、よく笑い」

(引用:「ステラnet」)

さらに、一見雑な人物に見えても、人の才能を見抜く鋭い感覚を持っていると説明しています。

豪快な振る舞いの奥に、作家の才能を見逃さない確かな目がある。

そんな黒崎の人物像は、実在の瀧田樗陰にも重なります。

 

また、副編集長・山中勇三を演じるのは井浦新さんです。

豪快な黒崎と、冷静な山中。

対照的な二人の編集者が、珠の作家人生にどのような影響を与えていくのかも注目したいところです。

 

まとめ|黒崎大三郎と瀧田樗陰の関係

以上、朝ドラ『ブラッサム』黒崎大三郎の実在モデルについてご紹介しました。

黒崎のモデルとして有力なのは、『中央公論』の名編集者・瀧田樗陰です。

さらに、副編集長・山中勇三にも嶋中雄作との共通点があり、『首都公論』には大正時代の中央公論社が反映されていると考えられます。

朝ドラでは珠が黒崎に直接原稿を渡しますが、史実の宇野千代が『墓を発く』を瀧田に送ったのは出会いから約5年後。

1922年に『中央公論』へ掲載され、作家として大きな一歩を踏み出しました。

黒崎と山中との出会いが、珠の文学人生をどう変えていくのか。今後の展開にも注目したいですね。

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