宇野千代と東郷青児は、1930年ごろから一緒に暮らし始めました。
出会ったその日から同棲したという、劇的な二人。しかし、その生活はやがて終わりを迎えます。
この記事では、
- 宇野千代と東郷青児が別れた理由
- 二人が別れた時期
- 別れたあとの宇野千代
宇野千代と東郷青児が別れた理由

宇野千代と東郷青児の別れには、ひとつだけの理由があったわけではありません。
宇野千代の仕事が忙しくなり、二人の生活には少しずつ距離が生まれていきます。そこへ重なったのが、東郷青児と以前の恋人との復縁でした。
二人に距離ができる
東郷青児と暮らしていたころ、宇野千代は作家として仕事を増やしていました。
1933年からは『色ざんげ』の発表が始まり、多忙な日々を送るようになります。仕事に集中するため、宇野千代は別に仕事部屋を借りるようになりました。
それまで同じ家で暮らしていた二人にも、少しずつ別々の時間が増えていきます。
東郷青児の復縁だけが、突然の別れを招いたわけではありません。二人の暮らしは、その前から変わり始めていたのです。
一緒にいることが当たり前だった生活から、それぞれの仕事や時間を持つ生活へ。日々の積み重ねのなかで、二人の距離は広がっていきました。
東郷青児が復縁する
さらに大きな転機となったのが、東郷青児の復縁でした。
東郷青児には、宇野千代と出会う前、情死未遂事件を起こした女性がいました。実は、宇野千代が東郷青児を訪ねたきっかけも、この事件です。
宇野千代は小説を書くため、情死未遂について話を聞こうと東郷青児を訪ねました。そして、その出会いから二人は一緒に暮らすようになります。
ところが数年後、東郷青児は情死未遂事件の相手と再びよりを戻しました。その後、宇野千代と東郷青児は完全別居の状態になります。
二人を結びつけるきっかけとなった事件の相手が、のちに二人の別れにも関わることになったのです。
別れまでの流れを整理すると、次のようになります。
宇野千代が仕事部屋を借りる
作家として忙しくなった宇野千代は、仕事のために別の部屋を借りるようになります。
二人に距離ができる
一緒に過ごす時間が減り、東郷青児との関係も次第に離れていきました。
東郷青児が以前の恋人と復縁
東郷青児は、かつて情死未遂事件を起こした相手と再び関係を持つようになります。
二人は完全別居へ
生活も完全に分かれ、宇野千代と東郷青児の同棲生活は終わっていきました。
つまり、生活が離れ始めたところへ東郷青児の復縁が重なったというのが、二人の別れまでの大きな流れです。
宇野千代と東郷青児はいつ別れた?
宇野千代と東郷青児が「いつ別れたのか」は、ひとつの年だけで整理するのが難しいところです。
資料によって、「一緒に暮らしていた期間」と「完全に関係が終わった時期」の表し方に幅があるためです。
別れの時期には違いも
岩国市の宇野千代公式サイトでは、東郷青児との生活は「3年ほど」だったと紹介されています。
一方、山口県観光サイトでは、宇野千代が仕事部屋を借りたあとに二人の仲が離れ、東郷青児が以前の恋人とよりを戻して、完全別居になったという流れが紹介されています。
国立国会図書館の略歴では、1930年に東郷青児と同棲を始め、1933~1935年に『色ざんげ』を発表。1936年にはスタイル社を創立しています。
つまり、「同棲生活が終わった時期」と「二人の関係が完全に終わった時期」を、同じ一点として考えないほうがわかりやすいでしょう。
確認できる流れを並べると、次のようになります。
1930年 東郷青児と同棲
宇野千代は取材をきっかけに東郷青児と出会い、一緒に暮らし始めました。
1933年 『色ざんげ』の発表が始まる
東郷青児から聞いた話をもとにした『色ざんげ』の発表が始まります。
その後 仕事部屋を別に持つ
多忙になった宇野千代は、仕事のために別の部屋を借りるようになります。
東郷青児と完全別居へ
東郷青児が以前の恋人とよりを戻し、二人は完全別居の状態になりました。
1936年 スタイル社を創立
宇野千代は新しい仕事へ進み、ファッション誌『スタイル』の刊行へとつながっていきます。
二人の関係は、ある一日を境に突然終わったというより、生活が少しずつ離れていくなかで終わっていったと見るほうが自然です。
この時期、宇野千代は『色ざんげ』を書き続けていました。恋愛と仕事が同じ時期に大きく動いていたことも、二人の関係を考えるうえで興味深いところです。
別れたあとの宇野千代

東郷青児との関係が終わっても、宇野千代は立ち止まりませんでした。
後年、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫との別れを振り返り、自分がどのように前へ進んだのかを語っています。
「前へ一歩を踏み出した」
95歳の宇野千代が語った『私の幸福論 宇野千代人生座談』には、別れについて印象的な言葉が残されています。
「身をかわして、前へ一歩を踏み出したのです。」
(引用:文春オンライン)
宇野千代は、別離の悲しみに浸り続けるのではなく、化粧をし、よい着物を着て外へ出たと振り返っています。
これは東郷青児との別れだけを語った言葉ではありません。それでも、宇野千代が恋の終わりをどう受け止めていたかがよく伝わります。
悲しみがなかった、と決めつけることはできません。
宇野千代自身が後年、悲しみのなかにとどまるのではなく、次の一歩を踏み出す生き方をしてきたと振り返っているのです。
1936年にはスタイル社を創立。その年の6月にはファッション誌『スタイル』を創刊しました。
世田谷文学館には創刊号も残されており、題字は東郷青児、表紙は藤田嗣治が手がけています。
恋愛関係は終わっても、東郷青児と過ごした時間まで、宇野千代の人生から消えたわけではありません。
東郷青児との恋が残したもの
東郷青児との関係は終わりましたが、二人の時間は宇野千代の作品に残りました。
その代表が『色ざんげ』です。
『色ざんげ』に残る関係
『色ざんげ』は、東郷青児をモデルにした画家を主人公とする長編小説です。
世田谷文学館では、東郷青児が起こした情死未遂事件を宇野千代が聞き書きして執筆した作品と紹介されています。
新潮社も、東郷青児本人が作品について、
「終りの一行まで、僕が話したことばかりだ」
(引用:新潮社)
と語ったことを紹介しています。
ただし、宇野千代は聞いた話をそのまま並べただけではありません。東郷青児の体験を素材にしながら、小説として組み立て、宇野千代自身の作品へと仕上げていきました。
そして興味深いのは、『色ざんげ』が、二人の関係が終わったあとに昔の恋を振り返って書かれた作品ではないことです。
発表が始まったのは1933年。東郷青児との生活が続いていた時期から、宇野千代は東郷青児の過去の恋愛や事件を作品へと変えていました。
恋人として暮らしながら、その相手の過去を小説にする。
宇野千代と東郷青児の関係には、恋愛と創作が深く重なっていたことがわかります。
だからこそ、二人の別れを知ったあとに『色ざんげ』を読むと、また違った見え方がしてくるのかもしれません。
⇒『色ざんげ』のあらすじを解説|東郷青児の実話?宇野千代が描いた恋愛のモデル
まとめ|宇野千代と東郷青児の別れ
以上、宇野千代と東郷青児の別れについてご紹介しました。
宇野千代が仕事場を別に持つようになり、二人には少しずつ距離が生まれました。そこへ東郷青児の復縁が重なり、二人の同棲生活は終わっていきます。
しかし、東郷青児との時間は『色ざんげ』という作品にも残りました。
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参考: 岩国市「宇野千代―岩国の旅― 3.文壇へ」
山口県観光サイト「作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観」
国立国会図書館「近代日本人の肖像 宇野千代」