宇野千代の恋愛遍歴のなかでも、印象深いのが画家・東郷青児との関係です。
二人の出会いは、小説を書くための取材がきっかけでした。ところが、宇野千代と東郷青児は出会ったその日から一緒に暮らし始めます。
この記事では、
- 宇野千代と東郷青児の出会い
- 二人の同棲生活
- 東郷青児をモデルにした『色ざんげ』
- 二人の関係が終わるまで
宇野千代と東郷青児の関係

宇野千代と東郷青児は、1930(昭和5)年から一緒に暮らすようになりました。
きっかけは、小説を書いていた宇野千代が、情死未遂事件を起こした東郷青児を取材したことでした。
当時、宇野千代は33歳。東郷青児も1897年生まれで、二人は同い年です。
| 宇野千代 | 東郷青児 | |
|---|---|---|
| 生年 | 1897年 | 1897年 |
| 出身 | 山口県岩国 | 鹿児島 |
| 職業 | 小説家 | 洋画家 |
| 関係 | 東郷青児と同棲 | 宇野千代と同棲 |
| 関連作品 | 『色ざんげ』を執筆 | 『色ざんげ』のモデル |
東郷青児は若くして二科賞を受賞し、1921年からフランスへ渡った洋画家です。帰国後も独特な女性像を描き、装幀や挿絵など幅広い分野で活躍しました。
一方、宇野千代も『脂粉の顔』などを発表し、すでに作家として活動していました。
作家と画家。異なる世界で創作を続けていた二人が、ひとつ屋根の下で暮らすことになります。
東郷青児への取材で出会う
1929年から1930年にかけて、宇野千代は報知新聞に『罌粟はなぜ紅い』を連載していました。
小説のなかでガス自殺をする男女を描くため、取材相手として選んだのが東郷青児です。東郷青児は1929年、女性との情死未遂事件を起こしていました。
宇野千代は、そのときの状況や心境を聞くため東郷青児を訪ねます。
二人は、作家と取材相手として出会ったのです。
出会ったその日から暮らし始める
ところが、取材だけでは終わりませんでした。
宇野千代は東郷青児を訪ねたその日から一緒に暮らし始めます。かなり劇的な始まりでした。
宇野千代は後年、東郷青児について次のように語っています。
「二番目に好きだったのは東郷青児です」
(引用:岩国市「宇野千代―岩国の旅― 文壇へ」)
一番好きだった男性として名前を挙げたのは尾崎士郎。東郷青児は宇野千代の人生に強い印象を残した人物でした。
宇野千代と東郷青児の同棲生活

1930年に始まった宇野千代と東郷青児の暮らし。
翌1931年には世田谷・淡島に新居を構えます。恋愛だけではなく、生活と創作も深く重なっていきました。
1930年 東郷青児と同棲
東郷青児への取材をきっかけに、二人は一緒に暮らし始めます。
1931年 世田谷・淡島で生活
アトリエのある洋館を構え、東郷青児は絵を描き、宇野千代は小説を書きました。
1931年 『大人の絵本』刊行
宇野千代の文章に、東郷青児が絵を添えた作品が白水社から刊行されました。
1933年 『色ざんげ』発表開始
東郷青児の体験を大きな素材とした『色ざんげ』の発表が始まります。
世田谷・淡島に洋館を建てる
1931年、二人は世田谷・淡島に白いコルビュジエ風の洋館を建てました。
家には東郷青児が絵を描くためのアトリエもあり、当時としてはモダンな住まいでした。
ただ、新居を建てるには多額のお金がかかります。
建築資金の借金を返すため、東郷青児が絵を描き、宇野千代がその絵を売って回りました。
東郷青児が描き、宇野千代が売る。
二人は暮らしを支えるため、仕事でも力を合わせていたのです。
二人の生活を伝える品も残る
二人が一緒に過ごした日々を伝える品は、現在も残されています。
『色ざんげ』の自筆原稿や東郷青児から宇野千代へ送られた書簡。さらに、二人が淡島の新居で使っていたドイツ製のコーヒーカップも残っています。
華やかな恋愛遍歴だけでは見えにくい、二人の日常です。
同じ家で暮らし、東郷青児は絵を描き、宇野千代は原稿を書いていました。
宇野千代と東郷青児の合作
二人は恋人であると同時に、作家と画家でもありました。
1931年には『大人の絵本』が刊行されています。宇野千代が文章を書き、東郷青児が絵を担当した作品です。
そして東郷青児自身の体験から、宇野千代の代表作となる小説も生まれました。
『色ざんげ』です。
東郷青児をモデルにした『色ざんげ』
宇野千代と東郷青児の関係を語るうえで、欠かせない作品が『色ざんげ』です。
1933年から発表された作品で、宇野千代の初期を代表する小説となりました。
モデルは、当時一緒に暮らしていた東郷青児です。
『色ざんげ』のモデルは東郷青児
『色ざんげ』に登場するのは、パリ帰りの画家。
女性との恋愛や情死未遂が、男性の告白という形で描かれます。モデルとなったのは東郷青児です。
もともと二人が出会ったのも、東郷青児の情死未遂について取材するためでした。
そこで聞いた体験が素材となり、一本の長編小説へと形を変えたのです。
東郷青児が語った『色ざんげ』
『色ざんげ』について、東郷青児も印象的な言葉を残しています。
「この作品は、終りの一行まで、僕が話したことばかりだ」
(引用:宇野千代『悪徳もまた』/新潮社「主語を明け渡さない女たち」)
宇野千代は、この指摘について「或る点では当っている」と認めています。
ただ、『色ざんげ』は東郷青児の話をそのまま書き写した作品ではありません。東郷青児から聞いた体験を素材にし、小説として形にしたのは宇野千代です。
東郷青児は恋人であると同時に、代表作を生むきっかけとなった人物でもありました。
『色ざんげ』は宇野千代の代表作に
『色ざんげ』は現在も、宇野千代の代表作の一つとして読み継がれています。
宇野千代自身も、
「私の書いたものの中で、一番面白い」
(引用:新潮社『色ざんげ』作品紹介)
と評しています。
2026年には新潮文庫から復刊。東郷青児との出会いから生まれた物語は、二人の関係が終わったあとも作品として残り続けました。
宇野千代と東郷青児はなぜ別れた?
劇的に始まった二人の生活でしたが、関係は少しずつ変わっていきます。
売れっ子作家となった宇野千代は、仕事をするため別の部屋を借りるようになりました。そのころから、二人の距離も離れていったとされています。
やがて東郷青児は、かつて情死未遂事件を起こした女性と再び関係を深めます。
その女性は、『色ざんげ』で「つゆ子」のモデルとなった人物でした。
宇野千代はそのことを知ったときの心境を、
「ぐしゃっとなった」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
と振り返っています。
自分が東郷青児から聞き、小説として描いた過去の恋愛が、現実のなかで再び動き始めたのです。
ただ、男女としての関係が終わったあとも、仕事上のつながりまで完全に消えたわけではありません。
1936年6月に宇野千代が創刊した雑誌『スタイル』では、東郷青児が創刊号の題字を担当しました。表紙を手がけたのは藤田嗣治です。
恋愛は終わっても、二人がともに過ごした時間は、宇野千代の作品や仕事のなかに残りました。
まとめ|宇野千代と東郷青児の関係
以上、宇野千代と東郷青児の関係についてご紹介しました。
二人は取材をきっかけに出会い、1930年から一緒に暮らし始めます。その後は世田谷・淡島に洋館を建て、『大人の絵本』や『色ざんげ』など創作でも深く関わりました。
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参考:
国立国会図書館「近代日本人の肖像 宇野千代」
岩国市「宇野千代―岩国の旅― 文壇へ」