朝ドラ『ブラッサム』の主人公のモデルとなった作家・宇野千代。
宇野千代には、生みの母・トモと、のちに千代を育てた継母・リュウという2人の母がいました。
実母のトモは、宇野千代がまだ幼いころに亡くなっています。
そのため、千代には実母との記憶がほとんど残っていませんでした。
この記事では、
- 宇野千代の実母・トモはどんな人だったのか
- 宇野千代の母・トモの死因
- 宇野千代と実母トモとの関係
- 実母を亡くしたあと、宇野千代は誰に育てられたのか
についてご紹介します。
宇野千代の実母・トモはどんな人?
宇野千代の実母は、トモという女性です。
宇野千代顕彰会の「宇野千代私製年譜」には、父・宇野俊次と母・トモの長女として千代が生まれたことが記されています。
トモは宇野千代の生みの母
宇野千代は1897(明治30)年11月28日、現在の山口県岩国市にあたる玖珂郡横山村で生まれました。
父は宇野俊次。
母がトモです。
宇野家は、代々酒造業を営んできた家でした。
宇野千代顕彰会の年譜では、母について「(土井)トモ」と記されています。
つまり、トモは宇野千代を生んだ実の母です。
ただし、トモ自身の生い立ちや性格について詳しく分かる資料は、今回確認した範囲では多くありません。
そのため、「どんな性格だったのか」といった人物像までは分かりません。
確認できるのは、千代を出産したあと、まだ幼いうちに亡くなったことです。
実母トモの旧姓は土井
宇野千代の実母は、資料によって「トモ」「土井トモ」などと書かれています。
宇野千代顕彰会の年譜では「母:(土井)トモ」と記載されています。
そのため、旧姓は土井だったとみられます。
「宇野トモ」と「土井トモ」という名前を見かけることがありますが、どちらも宇野千代の実母を指します。
宇野千代には、この実母トモのほかに、父・俊次が再婚したリュウという継母がいました。
そのため、宇野千代の「母」について調べると、トモとリュウという2人の名前が出てきます。
トモが「生みの母」。
リュウが「育ての母」です。
⇒ 宇野千代の継母・リュウはどんな人?宇野千代と継母リュウの関係を解説
宇野千代の母・トモの死因は肺結核
宇野千代は、実母トモと長く一緒に暮らすことはできませんでした。
トモは、千代が2歳になる前に亡くなっています。
宇野千代が2歳になる前にトモは亡くなった
山口県観光連盟の公式サイトでは、生母トモは、千代が2歳になるまでに肺結核で亡くなったと紹介されています。
宇野千代顕彰会の年譜にも、1899(明治32)年に母が肺結核で病没したと記されています。
宇野千代が生まれたのは1897(明治30)年11月です。
まだ、母との思い出をはっきり残せるような年齢ではありませんでした。
一部には「1歳半で死別」とする資料もあります。
資料によって年齢の表現に違いがあるため、この記事では「2歳になる前に亡くなった」としています。
トモの死因として確認できるのは、肺結核です。
宇野千代にとって、実母との別れはとても早いものでした。
宇野千代と実母・トモの関係
では、宇野千代は実母トモについて、どのような思いを持っていたのでしょうか。
千代には、実母との記憶がほとんどありませんでした。
一方で、人生を長く生きたあと、トモへの思いを言葉にしています。
宇野千代に実母との記憶はほとんどなかった
宇野千代は、物心がつくより前に実母を亡くしました。
そのため、トモの姿について、はっきりとした記憶は残っていなかったようです。
自伝『生きて行く私』でも、実母について、姿さえ思い浮かばないほど記憶が残っていなかったことを振り返っています。
幼くして母を失ったと聞くと、千代はさぞ悲しかったのではないかと思ってしまいます。
ですが、本人に当時の記憶がない以上、その気持ちまで想像して断定することはできません。
『生きて行く私』には、実母について人から聞かされた話も登場します。
宇野千代にとってトモは、一緒に過ごした思い出の中にいる母というより、周囲の話を通して少しずつ知っていった母だったのかもしれません。
晩年に実母への感謝をつづった
宇野千代と実母トモの関係を考えるうえで、印象的なのが晩年の言葉です。
宇野千代は『生きて行く私』の中で、80歳を過ぎたころ、自分がこの世に生まれてきたことについて考えたと振り返っています。
そのとき思い浮かんだのが、若くして亡くなった実母でした。
「よくこの私を生んでくれた」
(引用:『生きて行く私』宇野千代)
顔さえはっきり思い浮かべることのできない母。
それでも宇野千代は人生の晩年になり、自分を生んでくれた母への感謝を言葉にしました。
母との具体的な思い出は、ほとんど残っていません。
それでも長い人生の先で、実母へ思いを向けた千代。
トモは宇野千代にとって、記憶の中の母というより、自分の命につながる存在として意識されていたのかもしれません。
宇野千代は実母トモの死後、継母リュウに育てられた
実母トモを亡くしたあと、宇野千代の「母」となったのがリュウです。
山口県観光連盟によると、トモが亡くなったあと、千代はしばらく父の生家である造り酒屋に預けられました。
その後、自宅へ戻った千代を待っていたのが、父・俊次の後妻となったリュウでした。
父・俊次が後妻リュウを迎えた
リュウは、トモの死後に父・俊次が迎えた後妻です。
山口県観光連盟の公式サイトによると、俊次が迎えた当時、リュウは17歳でした。
その後、俊次とリュウの間には4人の弟と1人の妹が生まれます。
宇野千代にとっては、異母弟妹にあたります。
こうして千代は、継母リュウと弟妹たちに囲まれて育っていきました。
宇野千代は継母リュウを母として慕った
実母トモとの記憶がほとんどなかった宇野千代にとって、身近な「母」だったのはリュウでした。
山口県観光連盟の公式サイトでは、リュウは千代と実子を分け隔てなく育てたと紹介されています。
宇野千代も『生きて行く私』の中で、リュウとのさまざまな思い出を振り返っています。
トモが「生みの母」なら、リュウは千代を育てた「育ての母」。
そのため、宇野千代の幼少期のエピソードには、実母トモよりも継母リュウが多く登場します。
一方で、晩年になって実母トモへの感謝も言葉にした宇野千代。
生みの母と育ての母。
2人の母は、それぞれ違う形で宇野千代の人生につながっていました。
参考:
宇野千代顕彰会「宇野千代私製年譜」
山口県観光連盟「作家・宇野千代とは?波乱万丈な生涯と故郷・岩国で育まれた人生観」
まとめ|宇野千代の実母・トモと母娘の関係
以上、宇野千代の実母・トモについてご紹介しました。
宇野千代の実母は、旧姓を土井というトモです。
トモは1897(明治30)年に千代を出産しましたが、1899(明治32)年、肺結核で亡くなりました。
千代は、まだ2歳になる前でした。
そのため、宇野千代には実母との記憶がほとんど残っていません。
その後、父・俊次がリュウと再婚し、千代は継母リュウに育てられました。
しかし80歳を過ぎた宇野千代は、自分を生んでくれた実母へ「よくこの私を生んでくれた」と感謝しています。
記憶にはほとんど残っていない母。
それでも人生の晩年になって、実母へ思いを向けた宇野千代の言葉は印象的ですね。
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