朝ドラ『ブラッサム』で、東京から故郷・岩国へ向かった葉野珠。
札幌で待つ保のもとへ帰ると思われた珠ですが、電報を打ち、夜汽車で岩国を目指します。
大正時代、東京から山口県の岩国までは、いったい何時間かかったのでしょうか?
実は、当時の急行列車でも約23時間かかる長旅でした。
この記事では、
- 東京から岩国までの夜汽車の所要時間
- 大正時代の鉄道ルートと車内の様子
- 『ブラッサム』の珠が岩国へ向かった理由
- 宇野千代の帰郷エピソード
についてご紹介します。
東京から岩国まで夜汽車で何時間?

大正時代、東京から岩国までは、急行列車でも約23時間かかりました。
1921年(大正10年)の時刻表を見てみましょう。
| 列車 | 東京発 | 岩国着 | 所要時間 |
|---|---|---|---|
| 急行3列車 | 17:00 | 翌日16:04 | 23時間04分 |
| 急行5列車 | 17:30 | 翌日16:36 | 23時間06分 |
※1921年8月改正の時刻表をもとに作成。急行3列車は三等、急行5列車は一・二等の列車です。
東京を夕方に出発しても、岩国に着くのは翌日の夕方。
ほぼ丸一日、汽車に揺られ続けることになります。
しかも、これは急行列車を利用した場合です。普通列車を使えば、さらに時間がかかることもありました。
『ブラッサム』第20話では、珠が岩国から東京へ上京する際、約30時間かかったと語られています。
今回の夜汽車も、決して気軽な旅ではなかったことがわかりますね。
大正時代の夜汽車はどんな旅だった?
約23時間もかかる東京から岩国への旅。
現在のような新幹線がない時代、人々はどんなふうに移動していたのでしょうか。
東京から岩国までのルート
大正時代には、東海道本線と山陽本線を通って、東京から岩国へ向かうことができました。
主なルートはこちらです。
東京
↓
横浜
↓
名古屋
↓
京都・大阪
↓
神戸・岡山
↓
広島
↓
岩国
1921年の急行3列車を例に、途中の時刻も見てみましょう。
| 駅 | 時刻 |
|---|---|
| 東京 | 17:00発 |
| 名古屋 | 翌日2:02着 |
| 京都 | 翌日5:30発 |
| 大阪 | 翌日6:23着 |
| 岡山 | 翌日10:48通過 |
| 広島 | 翌日14:55着 |
| 岩国 | 翌日16:04通過 |
夕方に東京を出発し、名古屋に着くのは深夜2時。
京都を通る頃には朝を迎えますが、旅はまだ終わりません。
大阪、岡山、広島と西へ進み、ようやく岩国に到着するのは午後4時過ぎです。
この急行なら途中で乗り換える必要はありませんでした。
それでも、一晩を越えて走り続ける長い汽車の旅だったのです。
夜汽車の車内と過ごし方
約23時間の移動となると、気になるのが車内での過ごし方です。
大正時代にも寝台車はありました。しかし、利用できたのは主に一等・二等の乗客です。
京都鉄道博物館では、当時の寝台車について、次のように紹介しています。
「庶民には高嶺の花でした。」
(引用:京都鉄道博物館)
一般の人が利用する三等車には、まだ寝台設備がありませんでした。
三等寝台車が登場するのは1931年(昭和6年)のこと。
つまり、大正時代に三等車で夜汽車に乗るなら、座席で一晩を過ごすことになります。
夜になっても、朝を迎えても、続く汽車の旅。
途中で食事をとり、眠るときも座席の上です。長時間の移動は体への負担も大きかったでしょう。
東京から岩国への旅は、今では想像しにくいほど大変なものだったんですね。
ブラッサムの珠はなぜ岩国へ?
朝ドラ『ブラッサム』では、東京に来た珠が、札幌ではなく故郷の岩国へ向かいます。
珠は小説『墓を発く』の行方を確かめようと、札幌から東京へやって来ました。
出版社を訪ねると、なんと作品はすでに『首都公論』に掲載されていたのです。
さらに、原稿料として300円という大金を受け取ります。
編集長の黒崎からは次回作の話も持ちかけられ、いよいよ小説家としての道が開けてきました。
ところが、珠はすぐに次の仕事へ取りかかろうとはしません。
どうしても相談したい人がいると告げ、東京を離れます。
その頃、札幌では夫の保が珠の帰りを待っていました。
しかし、保のもとに届いたのは、思いがけない電報でした。
「コレカラ イワクニヘ イク」
珠が選んだ行き先は、札幌ではなく故郷の岩国だったのです。
東京から岩国までは、急行でも約23時間。しかも、珠は札幌から東京までの長旅を終えたばかりです。
それでも、帰りたい場所がありました。
岩国は、珠が生まれ育った故郷。家族との思い出だけでなく、教師時代のつらい経験も残る場所です。
そんな岩国へ、今度は小説家としての一歩を踏み出した珠が帰っていきます。
なぜ、遠い故郷へ向かうことを選んだのか。
約23時間もの長旅を思うと、珠の「どうしても会いたい」という気持ちの強さが、より伝わってきますね。
宇野千代も岩国へ帰っていた
実は、珠のモデルとなった宇野千代にも、東京から岩国へ帰郷したエピソードがあります。
1922年(大正11年)4月、25歳の宇野千代は札幌で夫の藤村忠と暮らしていました。
前年には短編小説『脂粉の顔』が懸賞小説の一等に入選。
その後、宇野千代は小説『墓を発く』を書き上げ、『中央公論』の編集長・瀧田樗陰へ送っています。
ところが、待っても返事がありません。
⇒ ブラッサム黒崎大三郎の実在モデルは?中央公論編集長の瀧田樗陰と史実を解説
そこで宇野千代は、原稿の採否を直接確かめようと東京へ向かいました。
編集部を訪ねると、思いがけない知らせが待っていました。
『墓を発く』が、すでに『中央公論』5月号に掲載されていたのです。
しかも、受け取った原稿料は366円。当時としては大変な大金でした。
大喜びした宇野千代は、その日のうちに東京を発ち、故郷の岩国へ向かいます。
翌4月13日の夕方、岩国駅に到着。
駅には5人の弟妹たちが迎えに来ていました。
宇野千代にとって、実に6年ぶりの帰郷です。
いつもなら駅から歩いて帰るところですが、この日は人力車を連ねて実家へ向かったといいます。
そして、継母のリュウに原稿料の一部を手渡しました。
そのとき、リュウは、
「まあ、こんとうに貰うても、ええかいの」
(引用:宇野千代『生きて行く私』)
と、涙を流して喜んだそうです。
さらに宇野千代は祖母の家も訪ね、原稿料を分け与えました。
かつて故郷を離れた少女が、小説家として成功への第一歩を踏み出し、家族のもとへ帰ってきたのです。
『ブラッサム』で珠が岩国へ向かう展開は、この宇野千代の帰郷エピソードとよく重なります。
長い夜汽車の旅は、宇野千代にとっても人生の節目を飾る、特別な旅だったのでしょうね。
⇒賞金200円・原稿料300円は現在のいくら?大正時代の価値を比較
まとめ|東京から岩国への長旅
以上、東京から岩国までの夜汽車の所要時間と、大正時代の鉄道事情についてご紹介しました。
1921年の時刻表では、東京から岩国まで急行列車で約23時間。
夜を越えて汽車に乗り続ける、大変な長旅でした。
宇野千代も1922年、東京から岩国へ帰り、小説家としての喜びを家族に伝えています。
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